2018年  礼拝説教

「主と共に生きる」


(詩編49編8~10、16節、ローマ6章1~11節)

「それともあなたがたは知らないのですか?」(6章3節)。そう言ってパウロは、何か大切なことを忘れてはいないか? わたしたちクリスチャンには、決して見逃してはならないことがある。そう言って、洗礼の話を始めます。
ここにある言葉は、いわば、キリスト者と教会のアイデンティティです。いったいクリスチャンとは何者であるのか。教会とはいったい何なのか? 何でないのか、が御言葉として示されています。
あなたがたは知らないのですか? わたしたちは皆、キリスト・イエスの「中へ」と洗礼を授けられた。すなわち、キリストの「死の中へ」と洗礼の水の中に沈められた。そうして生まれてきたのが、わたしたちクリスチャンです。
洗礼に込められた第一の意味は、キリストの「死にあずかる」ためです。これまで神を知らず、神に敵対してきたわたしたち、罪を罪とも思わず生きてきた「古い自分」が、「キリストと共に」十字架につけられ、主と共に「死んで、葬られる」。古い自分に死ぬために、わたしたちは洗礼を受けたのです。
この意味で、洗礼式の日とは、神の子として新しく生まれる誕生日であると共に、わたしたち一人一人のお葬式の日です。罪に生きてきたかつてのわたしたちが、キリストの手によって十字架にかけられ、死んで葬られた日。かつて神を知らずにいた、このわたしのお葬式の日です。
キリストの死にあずかることによってのみ、わたしたちの古い自分は罪に対して死ぬことができます。わたし一人では、古い自分に死のうとしても、死ねない、死にきれないのです。かつての罪深い自分と決別するだけの勇気が、わたしにはありません。かりにあったとしても、自分で自分に死ぬ、自分で自分を殺すことなど、わたしたち罪人にはそもそもできません。 ただ罪とはまったく無縁のお方が、イエス・キリストが、わたしたちのため、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださいました。キリストだけが、罪もないのに、わたしたちの罪をすべて背負って、これを償い、罪に対して死ぬことができたのです。
わたしたちにできることは、わたしのために死んでくださったキリストを信じて、受け入れることです。それだけが、わたしたちに残されたチャンスです。このチャンスを神様は、ご自分が愛し選んだわたしたちのために、与えてくださいました。キリストと「共に」死んで、キリストと共に生きるチャンスを、信じる者にくださったのです。
このように、わたしたちが洗礼を受けたいと心から願うようになったのには、もう一つ大切な理由があります。それは、キリストの復活にあやかるためです。「キリストと共に葬られ、その死にあずかる」ことができたなら、「キリストが死者の中から復活させられたように」、「わたしたちも新しい命に生きる」(4節)。キリストと結ばれキリストの死の姿に「あやかる」ならば、まちがいなく、キリストのよみがえりの姿にも「あやかる」ことができる(5節)。このことを信じて、わたしたちは洗礼を受けました。キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。そうなれるよう、神は救い主キリストを世に送り、わたしたちのために主は、「罪の赦しを与える洗礼」を始めてくださったのです。
そもそも二千年も昔の、しかも日本から遠く離れたユダヤで起こったあの事件が、今ここにいるわたしと、どんな関わりがあるというのでしょう? 思えば不思議な話です。しかも、これまでのわたしの生き様や、今のわたし、これからのわたしに関わる。わたしの生き死に、キリストほど深くかかわってくださっているお方はいない。聖書は、まちがいなく、そう言っているのです。二千年前のキリスト、この方の死と復活は、いまここにいるわたしたちと、どれほど、どのように関わりがあるというのでしょう?
大いにかかわりがあります。それはキリストが、ご自分は罪もないのに、わたしたちに代わって、罪の裁きを十字架で神から受けてくださった。このことからしても、よくわかります。キリストは生まれながら永遠に神の子で、罪とは何らのかかわりも、責任もありません。(むしろ、罪にかかわってきたのも、罪に責任があるのも、それはわたしたち罪人の方です。)
しかしキリストは、罪人として生きるほかないわたしたちに、どこまでも関わってくださいました。魂が飢え渇き、救いを求める者に命の清水の言葉を与え、神の道を示しました。逆らう者、裏切る者たちにも正面から向き合い、救いの手を差し伸べることを止めませんでした。なにより十字架の上で、わたしたちの罪が赦されるよう執り成し祈ってくださいました。命がとられることを承知で、最後まで、神の国と神の義に生きて、われらの罪を背負って、死んでいかれました。 罪と死と滅び、神の裁きという、もっとも忌まわしいもの。本当ならわたしたちが背負うべきもの、しかしわたしたちには決して背負いきれない重荷をすべて、わたしたちに代わって引き受け、罪に対して死んでいかれました。 すべてはわたしたちが救われるため、わたしたちが古きに死んで、新しい命に生かされるためです。この神の愛を信じ、受けいれるとき、この方への愛と信仰に生きていきたい。心からそう願わずにいられなくなりました。 そうして、キリストを信じるようになり、ついに洗礼を受けると、不思議なことが、わたしたちの体と魂に起こりました。「キリストと共に死んで葬られる」。自分の罪にさえ死ねなかったこのわたしを、キリストが引き受け、背負って、葬り去ってくださる。このことが確かに、わが身に起こっている。そのことを知りました。弱くて醜くて、卑怯で、自分でも自分をゆるせない。しかし自分をどうすることもできないこの私は、あの方に背負われている。もっと前から、わたしはあの方に背負われてきたのか? 実際、まちがいなくあの方はわたしたちを背負ってきてくださいました。そして、洗礼を受けたその瞬間、キリストの温かい背中に背負われて、キリストの手で、この方と共に古い自分が葬られていきます。事実、主は、罪に生きたわたしたちを背負って、陰府にまで降られたのです。 そして次の瞬間、主によって葬られたこの私が、同じ主の背中におぶわれたまま、新しい命の産声を上げている。その自分を発見します。「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(8節)。これらはすべて、神の約束に基づいています。主が約束された通りのことが、今そしてこれからも、わたしたちを襲うのです
「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く とこしえに、払い終えることはない」。
「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」
「しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から(このわたしを)取り上げてくださる」(詩編49編16)。
十字架で死んで葬られたキリストが、よみがえって、天に昇り、神の右にいて、今もわたしたちを、陰府の手から取り上げていてくださいます。そういう仕方で、主は今もわたしたちと共に歩んでくださっています。すべてを、神様が成し遂げられました。 キリストを信じて洗礼を受けたその瞬間から、わたしたちはキリストと一つにされています。キリストと一つにされているからこそ、キリストの身に起こったすべてのことが、わたしたち自身の出来事となりました。すなわち、キリストの死の姿に似たものとなり、主のよみがえりの姿に等しくされるのです。二千年という時の隔たり、場所の隔たりを超えて、主は働かれます。聖霊なる神が、主キリストとわたしたちを一つにしてくださいました。キリストという根にわたしたちは接ぎ木されています。神の全能の働きのゆえに、これからの日々を、キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命を生きていけるようになりました。
キリストが与える新しい命とは、尽きることのない永遠の命、神の子どもとされて、主キリストと共にとこしえを生きる、恵みの命です。
罪も死も、もはやキリストを支配しません。わたしたちが信じあがめるべき主は、イエス・キリストただおひとりです。ご自身の死によって罪と死を滅ぼし、復活の初穂となられたイエス・キリスト。勝利の主キリストに信じ従う者は、罪から解放されています。死すべき定めから解放され、神が賜る命の新しさを、日々、生き始めています。十字架と復活の主により新しくされたわたしたちの命、全存在を、キリストを通し、主なる神に献げましょう。主を愛し、主の御言葉によく仕え。再び罪の奴隷にならないように、主よ、われらを助け、守り、導いてください。
われらの主イエス・キリストが、かつてそして今も、天の父の栄光のために生きておられるように。主よ、わたしたちを罪から清めて、あなたのために生きる者とならせてください。聖霊によって、いよいよ深く、キリストと共に死に、キリストと共に新しく生きる者となれますよう。罪の道、不信仰な道へと逆戻りすることなく、主が開かれた新しい命の道をとこしえに、あなたと共に歩ませてください。 祈りましょう。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「その翌日」


(出エジプト記32章30~35節、ルカによる福音書7章36~50節)

 モーセは、神と共に山の頂上にいました。その間にふもとのイスラエルは金で若い雄牛の像を造りました。主は直ちにモーセを下山させ、イスラエルの偶像礼拝をやめさせました。荒れ野に来てからはじめて、主はイスラエルに裁きをくだされました。その日に三千人が倒れました。イスラエルがエジプトにいた時は、神の裁きはもっぱらエジプトの上に下されていました。しかしこの日、神はイスラエルを打たれたのです。イスラエルにとってそれは、ショッキングなことでした。
 「翌日になって、モーセは民に言った。『お前たちは大きな罪を犯した。』」。大きな罪、イスラエルの罪は重大でした。なぜなら十戒はこう始まるからです。「わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家、エジプトの国から導き出した神である。あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。いかなる像も造ってはならない」。十戒は、神とイスラエルの関係の土台となる契約の言葉です。「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」(出エジプト記24章3、7節)。イスラエルは、誓いました。われわれの世の中では、ともすると約束が軽んじられることがあります。しかし、約束は破る為のものではありません。神さまが約束の相手ならばなおさらです。
聖書の語る罪が、わたしたちには少し大げさに感じることもあるかもしれません。神を無視する、あるいは、神との約束を無視するくらい、大した罪ではないのでしょうか。エバはそう思っていました。しかし、それがわれわれ人類の罪の原点です。「取って食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と神が言われた知識の木から先ずエバが取って食べ、アダムにも与えたのです。エバは自分が神との約束を破るだけでなく、共に生きていたアダムにも約束を破らせてしまいました。神はわたしたちの心も見ています。口先で神を敬っていても、心で神を軽んじているなら、それをご存じです。そしてアダムとエバのように神を軽んじる心は、必ず、明らかにされます。
「今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない』。」モーセは、言い訳しようとは思っていません。たイスラエルのため償いをすることが出来るならそうしたいのです。『ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。もしあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…、」。モーセは、その続きを言うことができません。
  それでもモーセは、執り成しを続けます。「もし、それがかなわなければ、わたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」とまで言いました。神が記された書とは、命の書のことです。天の父である神のもとには、永遠の命に与るべき者たちの名が記された「命の書」というものがあるといわれています。命の書については、主イエスもある場面で弟子たちにお話しされています。それは主イエスが七二人の弟子を伝道に派遣し、彼らが主のところに彼らが帰ってきた時のことです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに服従します」。伝道の成果を得意そうに語る弟子たちを戒めるように、主はこう言われました。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろあなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」(ルカ10章20節)。悪霊を服従させたことより、命の書にあなたの名が記されたことを喜べと主は言われました。それはどんな喜びにも代えられないものなのです。命の書に、名が記されたことは、永遠の命が確約になるからです。逆に、命の書からの抹消は永遠の滅びを意味します。モーセは、自分に滅びることになってもイスラエルの救ってくださいと神に願いました。モーセがイスラエルの救いを願う姿はパウロに似ています。「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9章3)。パウロも切実に同胞の救いを願いました。しかし、主はモーセにこう言われました。『わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。』。命の書にだれの名前を記すか、救いと滅びを決めるのは、モーセ、あなたではなく、わたしだ、主は言われます。「わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。身よ、わたしの使いがあなたに先だって行く。」主は、モーセの願いを退け、彼には別の任務があることを確認させました。それは、モーセが、これからも主の民イスラエルを連れて約束の地に導いて行くこと、それが彼の使命です。その道のりを守るため、主は天使を遣わしてくださいます。モーセよ、あなたはこれから先も、わたし、主の備えた道を前に進み続けよ、と主はいわれました。
 モーセは、自分の名を命の書から消して、その代わりにイスラエルを救ってほしいと願いました。その使命をになうべき方は、他におられます。その方はモーセにまさる預言者、御子イエス・キリストです。キリストだけが御自分の命を捨てて、罪人に命を与えることがおできになります。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハネによる福音書10章18)。罪人のために命を捨て、その命を与えるために主イエスはこの世に来られました。
主イエスは、地上で人々に神の国の福音を宣べ伝え、病人たちを癒し、死人をよみがえらせました。しかし人々はイエスをどう思ったのでしょう。人々は主イエスのことを、バプテスマのヨハネのような単なる預言者の一人に過ぎないと思いました。神の業を行い、神の言葉を語った主イエスを、世の人々は誰も救い主とは認めなかったのです。はじめの内こそ人々は、主を歓迎し癒しを求めてきました。しかし、やがて人々は主イエスにつまづき、「弟子たちの多くが(イエスから)離れ去り、もはや共に歩まなくなりました」(ヨハネ福音書6章66)。人々は、主イエスのことを大工の子にすぎない、メシアを語ったペテン師だと、悪口を言われ人々から蔑まれました。最も近くにいた弟子の一人ユダに裏切られ、逮捕され「一緒に死んでも構わない」と言っていた弟子のペトロから「あんな人は、知らない」と言われ、すべての人々から見捨てられて十字架につけられて死にました。しかし、この主イエスの死が、わたしたちの罪の償いとなったのです。人間には、自分の罪を償うことも、他の人の罪を償うことも出来ません。主イエスは、イスラエルだけでなく、全世界の罪を償うことが出来る唯一つのいけにえです。主の犠牲の大きさを知るものは、自分の罪を深く嘆きます。
ルカ7章36~50節に出てくる女性、主イエスの足元で泣いていた女性がいます。彼女はなぜイエスの足元で泣いていたのでしょうか。それは彼女が自分の罪を深く嘆いていたからです。そんな彼女の心を、主はご覧になって言われました。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。…あなたの罪は赦された。…あなたの信仰があなたを救った。安心して(=平和の内に)行きなさい」。罪の重大さを知っている人は、主を愛します。主イエスに結ばれた者たちとは、主がわたしたちを愛されたように、わたしたちも主を愛し、互いに愛し合う。ぶどうの枝が木につながってはじめて実を結ぶように、主に根を下ろし実を結ぶ者たちが主から命を受けている者たちなのです。
「しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。』。主は、逆らい続けた者たちへの裁きについて猶予されています。主イエスが再び地上に来られる時に、すべてが明らかにされます。その日のことを最後の審判の日と呼びます。「人の子は栄光に輝いて、天使達を皆従えて来るとき、…羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け羊を右に、山羊を左に置く…わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。…呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」その日その時は誰も知りません。御子も御存じではありません。ただ父なる神だけが御存知です。その時が来れば、主が祝福か呪いか、その最終的な決定をされます。わたしたちは、その日を恐れおののいて待つ必要はありません。なぜなら裁きを行うのは、わたしたちの為に十字架にかかって命を捨ててくださった方だからです。この世の裁きは、間違いもあり、冤罪も多いです。しかし主イエスの裁きは正しく公平です。この世は、情け容赦なく罪人を断罪します。しかし主イエスは憐み深い方です。主イエスの訪れの日に、望みを置いていきましょう。  

(説教者: 堀地敦子)

「信仰の始まり」


(詩編19編2~5節、ローマの信徒への手紙10章14~18節)

ローマの信徒への手紙10章で、「信じる」ことをテーマに、パウロは語り続けます。13節:「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。旧約聖書の預言者の言葉です。13節で、預言者の言葉を引き合いに出しながら、主イエス・キリストを信じて、その名を告白する人を、神は必ずお救いくださる。初代教会以来、二千年間、世界中の教会が共有し、よろどころにしてきた信仰を、パウロはここでもう一度確認するかのように、宣べ伝えます。当時の教会だけではなく、今日のわたしたちにも変わらざる真理を宣べ伝えています。
「ところで」、14節でパウロは視点を変えて、このように語ります。ところで、「信じたことのない方をどうして呼び求められよう」。「聞いたことのない方をどうして信じられよう」。そもそも、「宣べ伝えてくれる人がいなければ、どうして(救い主のことを)耳にすることができるだろうか」、と。神のこと、救いのこと、イエス・キリストのことは、語りきかせてくれる人がいなければ、知ることもできない。まして信じることはできないのです。
今日では、テレビやインターネットの普及で、家にいながらにして、さまざまな情報を手に入れることができるようになりました。聖書のこと、キリスト教のこと、イエス・キリストのことも、少し手を伸ばせば、世界中のいろいろな情報を取り寄せられます。それにくらべて二千年前の社会では、そういう情報手段がなかったから、と聖書は言っているのではありません。そのような時代だからではなく、今日のような情報時代であっても、救いの知らせは、神様から与えられます。神様からしか、救いの情報を受け取ることはできない。また神様というお方を前にしてでなければ、信じますという告白も、救いに入れられるという現実も、味わうことはできないのです。 現代の脳科学で、おもしろい研究成果を聞いたことがあります。以前保育園のある教会で牧師、園の理事長をしていたので、知ることになりました。アメリカの研究で、2~3歳の幼い子どもたちに、外国語を教えるのです。2~3歳の子どもたちを二つのグループに分け、一人の教師が、まったく同じ内容の授業をします。ただし違うのは、一方のグループには、先生が生で、直接教えます。もう一方のグループは、同じ外国語教師がまったく同じ内容を教えているビデオを見せます。これを何回かくりかえして、外国語の習熟度を測ると、直接教えられたグループの方が、はるかに外国語がよく身についているのだそうです。
人から人へと直接語りかけられ、直接、受け取る。このことの大切さを、痛感させられるエピソードです。 神様は、世界中の罪に落ちた人間、わたしたちを救おうと、まず預言者たちを遣わしました。預言者たちに、救いの言葉を託して、人々に語らせたのです。預言者とよばれる人の中には、一人として、神様のことを自分から語り始めた人はいません。神様によってえらばれ、神によって立てられ、神様から言葉を託され、神から人びとに遣わされた者。その者だけが真に神を宣べ伝えました。 そして預言者たちがつかされたのは、ただ一人のお方を、わたしたちが知るため。この方を信じ受け入れ救われるためでした。イエス・キリストです。神ご自身の独り子であるキリスト一人を遣わすために、神は世界の全歴史を手のうちに収め、導いてこられました。やがて神の時が満ち、キリストが遣わされますと、今度はキリストが、弟子たちを町中や国中に遣わしたのです。イエス・キリストこそ主だ! この方を心から信じる者たちを神は義となし、口でこの方の名を告白する者を神はお救いになられました。 まずキリストの弟子たち、次に教会で宣べ伝えられたキリストを信じて、キリストの名を告白した者たちの中から、さらに神は福音宣教者を選び立てて、世に、そして教会にお遣わしになりました。今日でいう説教者・牧師です。 かつての預言者がみなそうであったように、牧師・説教者のだれひとりとして、自分からこの務めに立った者はいません。ある日、驚くべき不思議な仕方で、神様にとらえられ、イエス・キリストに仕えるしもべとされた者たちが、教会また神学校で訓練を受け、主によって福音宣教者として立たしめられるのです。ですからこの者たちは、自分のことを語りません。父・子・聖霊なる神を証しし、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いのことだけを語ります。
神は、ご自身が遣わした福音宣教者の口を通して、今日なおわたしたちに語り続けておられます。ほかの手段では、神はお語りになりません。テレビやインターネットで、どれほど正確に、ていねいにキリストのことが解説されていたとしても、教会で、神ご自身がお語りくださる言葉以外に、救いの言葉、命を言葉に触れる手段はありません。神は、ご自身が遣わした人を通して語られるキリストの言葉によって、世の人びとを教会に集めます。説教がいわゆる「よいお話し」かどうかよりも、神が語る者・聞く者たちのかたわらに立ち、神ご自身がお語りくださるとき、そのような説教の言葉を通して、神はわたしたちを救いへと集め、導かれます。そして、神が用いる教会の言葉、聖書に基づき、二千間教会に託されてきた信仰の言葉を、神は教会の言葉となし、用います。わたしたちが聞いて信じ、御名を告白して救われていくのは、そのような言葉なのです。神が教会にお与えくださった、イエス・キリストの言葉とは、そのような言葉であるにちがいありません。 このキリストの言葉を聞いて、信じる者、救われた者とされているのがわたしたちです。神の招きは、父ご自身から始まって、子なる神キリストを通して、地上にある教会、そこに立てられた説教者を通してのみ、もたらされます。そして、その言葉を、イエス・キリストの信じるべき言葉として、信じ受け入れていく人々だけが、キリストの手により、永遠に救われるのです。 「実に、信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります」。17節でパウロが宣べているのは、まさにこのことです。お行儀よく、牧師先生のご教説を受けたまわりましょう。などと言っているのではありません。信仰も救いも、キリストの言葉を聞くことによってしか、始まりません。そう言っています。しかも、説教者は、わたしたちと何ら変わらない貧しい人間、まちがいなく罪深い人間の一人でしかありません。しかし、そのような説教者を通して、神は今もわたしたちに語っておられる。この者の中にも、神が生きて働いておられる。そのことを信じるか! そのことが問いかけられているのです。それはみ言葉を聞くわたしたちにとっても同じです。同じく罪の弱さと貧しさの中にいて、語られた言葉を神の言葉として聞くことのできない。そうした弱さにあふれるわたしたち、そのわたしたちの内にも、説教者に負けず劣らず、神の恵みは生きて働いている。語る者と聞く者たちの間に主は立っておられ、主が執り成し、生ける神が今もわたしたちの内に生きて働き、救いの言葉を語っていてくださる。これこそが教会だ! これを信じないで、いったい何を信じているのか! このことを今朝のみ言葉は、訴えています。  ついわたしたちは、自分たちのやる気とか、そのようなものに頼りがちです。でも、本当に頼りになるのは、わたしたち自身ではなく神様です。わたしたちが頼るべきは、主なる神であり、万軍の主の熱心です。万軍の主の熱心が、すべてを成し遂げます。キリストを世に遣わしたのも、この方を十字架につけたのも、万軍の主です。なんとしてでもわたしたちを救おうとされる、全能の父。この神の熱心が、かたくなで聞く耳をもてないわたしたちの、不信仰という壁を打ち破ります。イエス・キリストの贖いの恵みだけが、信じ切れないわたしたちを、神を信じ頼る者へと造りかえてくださいます。
パウロはこの手紙の中で、ずうっと嘆いてきました。イスラエルの不信仰をです。人間の中から出る熱心が、どれほどあやふやで救いのよりどころにはならないかを、聖書も明らかしてきました。たとえばキリストを見限った弟子たちの姿がそうですし、イスラエル全体もうそうでした。 救い主キリストこそ、最高の預言者、完全無欠な説教者です。それ以上のお方です。わたしたちの罪をあがなうため、自らを十字架にお献げになりました。そしてよみがえって神の右に座し、今もこの世界の歴史を救いへと導いておられます。けれどもこの完全無欠な説教者キリストが、神の言葉を語ったとき、いったい誰が聞いて信じたのでしょうか? 誰も信じなかったのです。ユダヤの人びと、律法学者、ファリサイ派の人びとはみな、キリストの言葉を聞いて、つまづきました。わたしたち罪人の熱心が、自分自身をおそるべき不信仰のとりこにしたのです。イスラエルの民に与えられたキリストに、彼らは一切耳を貸さなくなり、自分たちの救い主を十字架につけたのです。 そしてキリストの弟子たちでさえ、キリストを見捨てて逃げ出しました。ペトロは言いました。たとえ他の弟子たちがつまづいても、わたしだけはつまづきません。たとえ主と共に死ぬことになっても、あなたから離れません。しかし次の瞬間、ペトロは恐るべき罪に、自分自身がとりつかれていたことを知るのです。
神がわたしたちに求めておられるのは、イスラエルが陥った人間の熱心やひたむきさではなく。そうした一切の人間力が打ち砕かれたところにこそ注がれる、神の憐み、赦し、神の恵みへの信頼(すなわち信仰)です。 教会で語られる説教、どこまでも人の言葉によってなされているはずの語りが、なぜ信仰と救いをもたらすキリストの言葉となるのか? 聖書はそれを、神の生きた働き、救いのわざ、聖霊の働きによって、と証しします。どうしてそのようになるのか? そのメカニズムはだれにもわかりません。
ただ、神がその牧師をその教会に遣わすとき、それを神の生きたみわざと信じ受け入れる者が一人でもいるならば、神は教会の祈りに応えて、欠けにみちた説教者を通して、イエス・キリストの言葉を、神自らお語りくださいます。その言葉を聞いて、わたしたちは信じて救われます。仮に聞けないという人がいたとしても、神はそのような人々にも一日中救いの手を差し伸べている。パウロは聖書に基づきそう断言します(10章21節)。 このような神のみ業が、わたしたちの教会の中でも現に起こっています。貧しい信仰、わたしたちの罪深さにもかかわらず、神が、わたしたちの交わりを、天につらなる真実な礼拝へと造り変えてくださいます。神の言葉を語ることにも、聞くことにも困難を覚えてやまないわたしたちに、つたない人の働き・人の言葉を通して、神は尊い救いのみ業をご自身の手で行われるのです。キリストのゆえに、このことを信じないわけにはいきません。現に行われている神の生きた働きを打ち消すことなど、わたしたちにできないのです。 神の活ける働きがあったからこそ、これまでの教会125年の歩みが可能となりました。これからも、神の生きたみ業に触れることによって、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと、わたしたちは日々新たにされていきます。粘り強く、謙虚に、ときに静かに祈りつつ、またあるときは積極的に、主のために、主の御業に仕える者とされていくのです。
神のいけるみ業は、教会に与えられた救いの言葉、説教の言葉だけでなく、聖餐の食卓の内に生きて働いています。教会で語られるイエス・キリストの言葉、すなわち説教と、目に見える御言葉である聖餐、主の食卓の両方に、信仰をもってあずかるとき、生ける神の腕に抱かれている自分自身を発見します。
わたしたちの罪のためにすべてを捨て、命をささげてくださった御子キリストに抱かれ生きていけるとは! なんと幸いな者たちなのでしょう、わたしたちは! 栄光と誉れはただ主にのみ、とこしえにありますように。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「山のふもとで」


(出エジプト記32章15~29節、ガラテヤの信徒への手紙2章11~14節)

 主がシナイ山の頂上にモーセをお呼びになり、四十日四十夜主はモーセと語りました。語らいがおわって、主はモーセの手に二枚の掟の板を授けました。それは、神と民の契約を記していました。その時、主は、モーセにイスラエルの異変を告げました。主は、イスラエルが若い雄牛の鋳像を造ったこと、これにひれ伏し『これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んでいる、と告げられます。神は怒ってイスラエルを全滅させようとしました。しかし、モーセが神とイスラエルの間に入って執り成したので、神はイスラエルに災いを下すのを、思いとどまってくださいました。モーセは、急いで山をくだっていきました。その手には、二枚の掟の板をしっかり持っていました。それは、神御自身が造られたもの、両面に文字が書かれ、筆跡は神御自身のものが刻まれていたのです。イスラエルの宿営に近づくと何か聞こえてきました。
 「宿営で戦いの声がします」ヨシュアは、民のどよめく声を聞いてそう言いました。ヨシュアは、人々が偶像を造ったことは知らなかったのです。ヨシュアは、モーセが頂上で神と語らっている間、おそらく山の中腹で待機していたからです。彼には、ふもとで起こっている民の醜態など創造もつかないことだったのです。モーセには、ふもとから聞こえる叫びがなんなのかわかりました。「わたしに聞こえるのは、音楽の音であり、歌を歌う声だ。わたしには、勝利の叫びには聞こえない。」。歌う声といっても、主を賛美して歌を歌っていたのではありません。もし賛美の声であれば、主もお怒りにはならなかったでしょう。これは、みだらな行いに耽る、人々の声、飲めや歌えと騒ぐ声です。「主が語られたことをすべて守り行います」(出エジプト記24章7)という山に上る前の約束など、すっかり忘れられてしまったようです。宿営に近づいてモーセは、実際のイスラエルの有様を目の当たりにしました。それは、彼が思った以上の光景にモーセはショックを受けました。怒って、激しく怒り、手にしていた二枚の板を投げつけてしまいます。山のふもとで掟の板は、粉々に砕かれました。
 モーセはアロンに詰め寄ります。「この民があなたに一体何をしたのか。何故、あなたは、この民にこんな大きな罪を犯させたのか」。アロンは、いいました。「わたしの主よ、どうかそんなに怒らないでください。怒りを静めてください。この民が悪いことはあなたもご存じです」。  わたしが罪を犯させわけではありません。この民が悪いのですと、アロンは、言い逃れをしました。この民は、何時も不平や愚痴を言う人々ではないですか。水がない、マナばかりでは飽きたと、民は何度言ったか分かりません。おまけに、人のあら探しをするような人たちでもあります。(モーセが異邦人の女性を妻にしていると、人々は彼(モーセ)を非難した。民数記12章1節を参照)。彼らが、偶像を造った、乱行し騒いだ、だからといって、なぜ今更それほどショックを受けるのですか?というのです。しかし、アロンが責任を逃れることはできません。彼はモーセが留守の間、民を導く責任があったからです(出エジプト24章14節)。 さらに、アロンの言い訳は続きます。民がわたしに「我々に先立って進む神々を造ってください。我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、わからないからです。」。人々から言われて像を造るしかなかったというのです。つまり、アロンが牛の像を造ったのは、民が偶像を造るよう要求したからだというのです。さらに、モーセの帰りが遅かったから四十日も帰ってこないから、民がみな不安になったのです。主がモーセをもっと早く帰してくださらないから悪いというのでしょうか。こうなると、アロンは自分以外のすべてに責任を転嫁しているかのようです。モーセの帰りが遅かったこと、主がモーセを四十日四十夜共に語らったことは、誰も非難すべきではありません。主は理由もなくモーセと四十日も語らったのではありません。これは、主イエスの再臨を待ち望むわたしたちの心得です。「主が来るという約束は、一体どうなったのか。」という人々が必ず出てきます。しかし、決して動揺したり、不信に陥らないようにしましょう。「主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロ二3章9節)。さてアロンの責任逃れは続きます。24節「『金を持っている者は、それをはずしなさい。』と言うと、民はわたしに金を差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛が出てきました」。この牛の像は、自然にできたというのです。皆から金を集めて火の中に入れたら自然に雄牛の像が出てきた。人が造ったのではなく自然にできた、いかにも、もっともらしく聞こえます。まるでこの牛の像を造ったのは、神さまだと言わんばかりなのです。これは、明らかに事実反しています(出エジプト32章4)。それに主は仰いました。「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト20章4~5節)と。目に見えない神を礼拝する為、民はエジプトの国から導き出されました。その為に主は律法と授けました。律法を授けた主が自から律法を破るはずありません。
モーセは雄牛の象をとり火で燃やし、それを砕き粉々にしました。それを水の中にまき散らし民に飲ませたのです。モーセは民が勝手な振る舞いをし、アロンがそれを押さえるどころか後押ししたこと、それは世の人々の嘲笑の的になるであろうと思い知らされました。民は苦い水を飲まされたのは、この日を自分たちの罪を忘れないためです。
モーセは、宿営の外に立ち民に告げました。「だれでも主につく者は、わたしのもとに、集まれ」と。偶像を離れ、悔い改めて、主に立ち帰るよう呼びかけたのです。しかし、この呼びかけに全員が応じたのではありません。主のもとに来ようとしない人々がいた。レビ人だけが、全員主のもとに集まったと言います。その他の部族では、主に立ち返るのを拒否した人々があったというのです。モーセを通し、主は厳しい命を下します。「イスラエルの神主がこう言われる。『おのおの剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ。』」と。その日、民の三千人が倒されました。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうともこれを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14章26)。弟子たちの中には、家族を置いて来た者たちもいます。しかし、自分の命さえ憎む者などありませんでした。「ご一緒に死んでもかまわない」と言っていたペトロでさえ、最後まで主に従うことはできませんでした。主イエスを慕っていた民衆も、弟子たちも、誰もが主のもとから散らされていきました。しかし最後まで従い通せないわたしたちのため、主イエスは御自分の命を差し出し、十字架で罪を償ういけにえとなってくださったのです。わたしたちは赦しを受けた者たちなのです。
 この日は、エジプトから導き出されたイスラエルにはじめて主の裁きがくだった日です。実際に、三千人倒れました。神はこうせざるを得なかったのです。これまで、エジプトの大軍に追跡されても、誰も被害を受けなかった。水がない、食べ物がないと不平を言っても主は民を打たなかった。しかし、ここでは主はこうせざるを得なかったのです。神は優しい愛の方であります。一方で神は、罪に対して厳しい義なる方でもあられます。罪を厳しく裁ことが出来る主こそ、わたしたちを罪から救うこともおできになります。主はそういう方なのです。これとは真逆の出来事が起こった日、それはペンテコステの日です。使徒ペトロによって、主の復活後、初めて世の人々にイエス・キリストの福音が語られました。「悔い改めなさい、めいめいイエスキリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」。その日福音を信じて救われたのは三千人でした。聖書は、我々に問うています。あなたは、どちらの三千人に加わりたいか?悔い改め、主イエスを信じて救われる三千人か。それとも頑なになって滅びてゆく三千人か。わたしたちは、救われる者たちの列に加わって行きたいです。  

(説教者:堀地敦子牧師)

「もう一人の息子」


(イザヤ書55章1~3、ルカによる福音書15章25~32)

父親には、まだ、もう一人息子がおりました。父親がまだ元気なのに、財産の分け前をもらい、遠い国に行ってしまった弟。いったいどこに行ってしまったのか、今はその生死すらわからない。とんでもない弟。この弟とはまったく正反対に、一生懸命まじめに仕事に励み、父親を手伝い、一家を支えてきた兄が、もう一人の息子です。
この兄が、いつものように畑に出て、使用人たちを率いて田畑を耕し、またたくさんの羊たちの世話をしていた、ある日。一日の仕事を終えて、くたくたになって、家の近くまで帰ってきたときのことです。気がつくと、家の方からにぎやかな歌声と音楽の調べが聞こえてきます。さらに近づくと、大勢の者たちが楽器を手に、歌い、踊り、楽しそうな宴の様子が響いてきました。
いったい何事かと、若い使用人を家にやると、まもなく返事が返ってきました。「若様、どうやら、あなたのあの弟様がお帰りになったようです。それでお父様はたいそうお喜びになって、まるまる太った子牛を丸ごと料理させて、家中みんなで喜びのパーティーをなさっています。」 「さあ、若様も早くおうちに戻られて、弟君と再会なさいませ」。
これを聞いた兄は、まるで信じられないという面持ちで、家の門の外までやってきました。兄は、決して中に入ろうとせずに、大声でこう叫びました。「お父さん、いったいこれは何事ですか! あなたとこの家を捨てていったあの男、あなたのあの息子が帰ってきたからといって、こんな大騒ぎをするなんて、いったいどうしたことですか!」。もってのほかだ、納得できないとばかりに、兄は怒りをあらわにし始めました。 すると父親は家から出てきて、兄のそばに寄り、彼をなだめ始めます。でも兄は聞き入れようとしません。重ねて父親にこう言いました。「見てのとおり、わたしはもう何年もあなたに一生懸命、仕えてきました。あなたの言いつけに逆らったことは一度もありません。なのに、わたしと友達のために、子ヤギ一匹さえ、あなたはくださらなかったではありませんか。」 「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの財産を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を食べさせておやりになる」。
いったい、これまでの私の人生は何だったのですか! お父さん、あなたにとってこの私はなんなのですか? 今までわたしがあなたのため、この家のため一生懸命に働いてきたのに、まったく気にかけてもくださらないのですか? 積りに積もった思いを、父親にぶつけます。 父親は、怒り続ける息子に、語りかけます。「子よ、わたしの愛する息子よ、お前は(どんなときにも)いつもわたしと一緒にいられたではないか。わたしのものはすべてお前のものだ。しかし、あの息子は、あの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。だから祝いの宴を開くのは当たり前ではないか」。死んだはずの息子が生きて帰ってきた。しかも心から罪を悔い改めて、立ち返ってきた。だからこの子は、神に喜ばれ、祝われるべきなのだ。そう父親は答えました。
どちらの言い分が正しいのでしょう? 失われていた弟の帰りを喜ぶ父親の気持ちもわかりますし、他方、弟のいない間、一生懸命、父と家族に尽くしてきた兄の言い分ももっともな気がします。キリストが語られたたとえ話は、どちらが正しいか?ではないのです。どこに真実があるか、これを見極めることが大切です。そのヒントは、兄の言い分の中にあります。
兄の怒りは、自分よりも弟をひいきしていないか?という思いから出ています。父親はほんとうに、弟の方ばかりに愛情を注いでいるでしょうか? 兄を邪険にしているでしょうか? 弟が、「わたしは天に対しても、お父さんあなたに対しても罪を犯しました」。そう言って帰って来るはるか前から、父親は、毎日、通りへ出て、弟の姿を探していました。そして見つけたら、駆け寄って、両腕をひろげ、上から覆いかぶさるように、帰ってきた息子を救い上げました。これとまったく同じことを、もう一人の息子に対しても、父親はしています。怒って家に入ろうとしない兄を、父親自ら外に出てきて、なだめるのです。
兄は、怒りのあまり、父親を「父」とは呼びません。いえ実際には、一度だけ呼びます。「お父さん」と呼んではいますが、しかし30節で、自分の弟のことをこう呼ぶのです。「あなたのあの息子が…」。つまり兄にとって、もはやあれは弟ではない、あなたもわたしの父親ではない。そう言っているのも同じです。
さらに29節の兄の言葉が、父親と兄との関係を物語っています。29節:「わたしは何年もあなたに仕えてきました。言いつけに背いたことはありません」。確かにそうなのでしょう。しかし兄は、大変な事実をここで打ち明けています。「あなたに仕えて」の「仕える」は、奴隷が主人に仕えるときに使う言葉です。そして「あなたの言いつけ」とは、主人が奴隷に与える「戒め・命令」のです。つまりこれまでの兄の人生は、息子としてではなく、まるで奴隷のように自分の父に仕えてきた。主人の命令を必死に守ろうとする奴隷のように、これまで歩んできた。そう言っているのです。 自分でも言っているとおり、兄は本当に一生懸命、父に仕えてきたにちがいありません。しかし兄と父親との関係は、いつのまにか、親子ではなく、奴隷と主人のそれになってしまいました。息子として、父親を敬い、愛し、慕う、親子の間柄を喜ぶ、という生活からかけ離れた人生になってしまったのです。反対に、自分がどれほど有能であるか、主人に見せつけなければならない。やる気があり、リーダーシップもあって、財産管理もよくできて、いかに跡取りにふさわしいか、その資質にあふれているか。そのことを父親という主人に認めさせないといけない。でないと、跡取りの立場を、誰かに奪われてしまう。不安と焦りが、いつのまにか兄の人生を変えてしまったのです。しかもそのようなときに弟が帰ってくると、どうでしょう。弟のために、喜び祝う父親の姿を見て、これまで自分が築き上げてきたすべてを、あの弟がかっさらっていくのか? 跡取りの身分を、あいつに奪われるのか? とんでもない! 不安と恐れの奴隷となった、あわれな兄の姿が浮かび上がってきます。
父親の態度がそうさせたのでしょうか? 違います。父は、兄がともにいてくれることをいつも喜び、兄を信頼していました。だからこそ、家と事業のすべてを兄に任せていたのです。父親は、兄のことも、弟のことも、同じように、変わることなく愛していました。しかしこの父の心を、いつもそばにいたはずの兄は、気づくことができませんでした。父への信頼を、遠いかなたに置き忘れてきてしまったかのようです。 もう一人、放蕩息子がいたのです。弟は文字通り、親不孝の限りを尽くし、父親の人生ともいうべき財産をつまらないことのために使い切ってしまった。きわめて退廃的な、どうしようもない人生を送ってきました。だれの手本にもなりはしません。悔い改めて立ち帰ってくるまでは! それにひきかえ、もう一人の息子・兄は、きわめて優等生です。まじめで誠実で、だれよりも模範的です。しかし兄の心の中は、そうではありませんでした。自分に向けられた父親の愛がわからない。あふれるほどの信頼が、父から自分に寄せられていることにも気づかない。息子として大切にされていながら、そのことに気づけない。父親の一番近くにいながら、兄の心は、父から遠く離れていました。彼もまた、父親からみて、失われた息子、もう一人の放蕩息子だったのです。
この兄、そして弟の姿は、いったいだれのことでしょうか? わたしたち自身の姿ではないでしょうか? ときにはあの弟のように、自分勝手に、好き放題の人生を送り、そのために行き詰ってしまうわたしたち。かと思えば、あの兄のように、見せかけだけは優等生としてふるまっている。しかし心の中は深い闇に閉ざされている。だれもがあの兄あるいは弟のようではないですか! だからこそ、父なる神に出会って、わたしたちは救われなければならないのです。父なる神に見出していただかなければならない。 父なる神は、今もわたしたちのことを心にかけ、わたしたちを探し求めておられる神です。見つけたら、わたしたちを赦し、神の子どもとして喜んで受け入れてくださる父です。そのためにキリストを送り、わたしたちの罪を背負わせ、償わせました。教会のシンボルである十字架が、父なる神の愛とまことを、わたしたちに伝えています。
来る日も来る日も、今日も、わたしたちの帰りを待ち望んでいてくださる神、天の父であられる神のもとに戻っていくときに、人は本当に救われます。そしてこの父のもとで、わたしたちは変われるのです。 「あなたのあの息子」。兄はもう自分の弟のことを、そういうふうにしか呼べなくなってしまいました。しかしその兄に、父親はこう語りかけます。「お前のあの弟」。あれはお前の弟だ、「お前のあの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。だからわたしと一緒に喜んでくれ。
わたしたちが神をわれらの天の父とすることができるのは、キリストを信じたからであります。それは同時に、キリストのゆえに、あのひと、あの男あの女を、わたしの兄弟、姉妹と心から呼べるようになった。そのとき、キリストのゆえに父なる神は、わたしたち皆の父となってくださるのです。なぜなら、「あの人のためにも、主キリストは死んでくださった」から。この人のためにも、主は命をささげられたからです。そのことが心の奥底までストンと落ちてきたとき、わたしたちは、キリストを通してすでに神の家族にされていることを知るのです。 教会は「主に養われる羊の群れ」であり、キリストのゆえに神を父と呼ぶ「神の家族」です。わたしたちの間に、そのような天の国の交わりを回復させてくださるお方こそ、天におられる「われらの父」なのです。 この父のもとに、帰っていくべきほんとうの「ふるさと」があります。帰ることのできる家、教会です。たとえこの世で、帰るべき国や土地を失い、すべての財産や健康を失ったとしても、温かい家族や友人たちに見離されたとしても、それでもなお、立ち帰るわたしたちを喜んで迎えてくださる神がおられます。
わたしたちは、すでに今、神に見出されています。キリストによって招かれ、呼び集められた神の家・教会で、新しい人生を歩み始めています。天の喜びと永遠の祝福が、わたしたちの行く手には広がっています。それらが今まさに、キリストを通して天の父から、わたしたちに手渡されようとしています。罪の赦しと永遠の命を、キリストの手から受け取る。これにまさる幸いはありません。  

(説教者:堀地正弘牧師)

 「金の子牛」


(出エジプト記32章1~14節、使徒言行録7章38~43節)

これは、イスラエルが堕落した日の出来事です。モーセはシナイの山へ一人登っていました。神の言葉、十戒の記された板を受け取るためでした。「モーセは四十日四十夜山にいた」(出エジプト記24章15~18)。
モーセが山から下りてこないので、民はアロンのところに集まっていました。「我々に先立って進む神々を造ってください。」と。エジプトの国から我々を導き上ったあのモーセに、何が起こったのか分からない。山で遭難したのか。それとも、…。人々は不安に駆られていきました。 民はアロンに言いました。主に代わって自分たちを導く神を造ってほしいというのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。いかなる像も造ってはならない」十戒の言葉を聞いたばかりだというのに。「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」(出エジプト記24章3)と誓ったばかりだというのに。第一の戒めも第二の戒も、まったく無視したのです。わたしたちを創造された主である神を捨て、自分たちの手で神々を造ろうといいました。
 「神々を造ってほしい」という民の要求に、アロンは、どう答えたのでしょうか。何と、彼は人々の要求を丸呑みに従いました。まるで十戒を一度も聞いた事がないかのようにアロンは振る舞っています。「あなたたちの妻や息子や娘たちが身につけている金の耳輪:イヤリングを外して持ってきなさい」。アロンは、人々から受け取った金の飾りで、若い雄牛の象を造りました。人々は、これを見ていいました。「これこそ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」。
アロンは、この像の前に祭壇を立て「明日、主の祭りを行う」と宣言しました(5節)。次の朝人々は、早起き、焼き尽くす献げものや、和解の献げものを捧げました。人々は、飲み食いする為に座り、楽しむために立ち上がったといいます。この礼拝は、人間の要求によって始まったもので、自己満足のためのものでした。
まことの神は、神々ではなく唯一人です。まことの神は、人間の手で造ることはできません。わたしたちには神を造ることも、神の形を刻むこともできません。わたしたちが神を造るのではなく、神がわたしたちを造られたのです。しかも神は御自分にかたどってわたしたちを造られたのです。天地万物が存在する前から神がおられたのです。人間の手で造った神々は目で見ることもできない、耳で聞くこともできない。偶像はわたしたちを見守ることも、祈りを聞くことはできないのです。
神は人が思い通りに操作できるものではありません。わたしたちが神の言葉に従うべきなのです。偶像は、わたしたちに命令しないし、思い通りにできます。だからわたしたちは偶像に傾きます。それは、人間の手で動かしてもらわなければ、自分の足で動くこともできません。そんな力のない偶像の神々がイスラエルを奴隷の国から救う力などありません。偶像礼拝とは自分に都合の良い神々を勝手に祭り上げ神を操ろうとすることです。「自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師を集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(テモテ二4章3~4)。パウロは教会に警告します。自分たちの思うとおりになる偶像、自分たちに耳に心地よい話を語る教師を好む、わたしたちこそ偶像崇拝するものなのです。   神は何もご存じなかったのでしょうか。そんなことはありません。神は、しっかり見ていました。イスラエルの民が、そしてアロンが何をしたのか知っています。人々はイスラエルを導いた神に替えて自分では動くこともできない像を拝みました。主は、言われます。「あなたの民は早くも堕落した」。主はイスラエルのことをもはや"わたしの民"と呼ばないのです。
「わたしはこの民を見てきたが実にかたくなな民である。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」。イスラエルを全滅させてモーセを大いなる民とすると言いました。
しかしモーセは言いました。「どうして御自分の民に怒りを燃やされるのですか」。モーセは、イスラエルのことを"エジプトから導き出した「あなたの民」ですといいました。主よ、あなたが言われるように、イスラエルを滅ぼしてしまったら、世の人々にどう移るでしょうか訴えます。エジプト人たちは、出エジプトを主が悪意を持って計画したのだと言うでしょう。(民数記14章13~16)。そんなことを言わせてはいけませんとモーセは言いました。
モーセは、主の栄光にかけて滅ぼさないでくださいと訴えました。モーセは、主が御心を翻してくださるように強く懇願しました。怒る心をを変えてください(ナーハム)。アブラハム、イサク、イスラエルを思い出してください。イスラエルの先祖たちへの約束の中に思い出してください、と。「空の星のようにする」(創世記15章5)。モーセは憐れみを訴え続け、主は、思い直してくださいました。神は民を憐れみイスラエルを滅ぼすことは、やめました。これは、神の妥協でしょうか。決して、妥協ではありません。このことを通して主はわたしたちに教えています。主の憐れみがなければ、誰も救われないのです。
神は、義しい方ですから、罪に妥協するような神ではありません。神の怒りは、決して旧約の時代だけのものではありません。「不義によって、真理の働きを妨げる人間のあらゆる不義と不信心に対して、神は点から怒りを現されます。」(ローマ1章18)。神はわたしたちの罪に対して怒っておられます。「正しい者はいない。一人もいない。神を探し求める者もいない。だれも彼も、役に立たない者となった」(ローマ3章10~12)。神の正義の審判が、そのままわたしたちの上に下されたら、すべての人が滅びます。モーセもまたわたしたちと動同じ罪人です。彼は、主の憐れみによって預言者、仲保者として立っていました。罪人の執り成しでさえ神は聞き入れてくださったのです。神と民の間に立つモーセのすがたは、やがて来られるキリストを思い出させます。アブラハムにした約束(創世記12章2節)を、そのままモーセに移すというのです。
神は、頑ななイスラエルに変わってモーセを新しい神の民にすると言われました。これを承諾すれば、モーセは自分一人だけ助かったかもしれません。これから先、モーセは荒れ野でイスラエルに反抗され苦難が続きます。それを思うと、あの時、神の提案を受けても良かったのでは、と思います。しかし、モーセは、自分だけ助かることを願いません。彼は、神とイスラエルの間に立ち、民の救いを願いました。それが適わないなら、むしろ自らの滅びを願いました(32節)。
キリストは、モーセにまさる仲保者として世に来られました。キリストは、神とわたしたちの間に立たれ、命を捨てて下さったのです。罪のないキリストがわたしたちの代わりに神の怒りの裁きを受けてくださったのです。キリストは、わたしたちが、二度と罪の奴隷にならないため命を捨て、血を流されたのです。自分自身の為に生きるのではなく、主のために生きるのです。  

(説教者:堀地敦子牧師)

「駆け寄ってくださる神」


(ルカによる福音書15章11~24)

イエス・キリストは、たとえ話を好んでよくなさいました。大切なことを、たとえ話に託したのです。それら数あるたとえの中でも、もっともよく知られたもの。聞く者を惹きつけてやまないキリストの言葉。それが、今朝読まれた聖書です。 話はこう始まります。「ある人に息子が二人いた」(11節)。弟の方が父親にこう言い出しました。「お父さん、僕が受け継ぐことになっている、財産の分け前を今、ください」(12節)。現代なら、生前贈与は珍しくありません。しかしこれは、二千年前、ユダヤでの話です。父親が元気なうちに、遺産を分けてくれなど、親不孝もいいところです。「財産をたくさん残して、一日も早く天国に行ってください」と言っているようなものです。
このとんでもない願いを、しかし父親はかなえてやります。息子が望んだとおり、この子が受け取ることになる財産を譲り渡すことにしました。当時のユダヤの決まりでは、父の全財産のうち兄が3分の2、弟が受け取ったのは全財産の3分の1です。 すると何日も経たないうちに、この息子は、手にした財産を全部お金に換えて、遠い国に旅立ってしまいます。今ふうにいえば、高校を卒業したら東京に行く、ニューヨークに行く。都会に行って、自分の好きなように、たのしく派手にやりたい、というわけです。 そんな浮ついた心で、大丈夫でしょうか? 大丈夫ではありませんでした。手にした大金を、あっという間に使い果たしてしまいます。お金ならいくらでもある。そう思って好き勝手やっていると、気がついたときには、スッカラカンになってしまっていました。 さらに悪いことには、その頃、この国に飢饉が起こって、食べ物が手に入らなくなります。弱り目に祟り目とはこのことです。 そこである人、家畜をたくさん飼っていたお金持ちの人を頼って、身を寄せます。遊び友達だったのかもしれません。お金をたくさん持っていたときには親切そうに、友達扱いしてくれても、無一文になってからは打って変わったように冷たくなる。世の常です。ただでは置いてくれません。住み込みで豚の世話をしながら、何とか食べつないでいけそうだ。そう思ったのもつかの間、世の中それほど甘くはありません。飢饉で食べ物がないなか、安月給で、まともな暮らしなどできない。食べていくのに困り果てて、なんと世話する豚の餌でよいから腹を満たしたいと思いました。ところが、豚の餌すら、この主人は恵んでくれません。人間扱いどころか、動物以下の扱いを受けて、ついに生きていくことに行き詰まってしまいました。
そのときです。この息子の脳裏に、父親の顔が浮かんできました。ふるさとを出てきてずいぶん時が経っています。父に対してひどいことを心に思い、とんでもない不義理を父親にしてきた自分です。それでも、懐かしくて恋しくてたまらない。生まれ育ったあの家、そして父親の顔が、恋しくてたまらない。「こんなことになるなら、父親といっしょに、家にいればよかった」。「そうだ!お父さんのところに、帰ろう!」 我に返った息子は、ようやく自分のいるべき場所があることに気づきました。 ところが、帰ろうと思っても足が動きません。合わせる顔がないのです。「あれほど父親に不義理をして、いったい、どんな顔をして帰ればいいのだ!」合わせる顔がない!
弟は心に決めました。「わたしは罪を犯しました。お父さんに対して。そして天にいる神様に対して、ゆるされないことをしてきました」。もう僕はお父さんの息子と呼ばれる資格はありません。でも、どうしてもお父さんに会いたい。父さんの顔を拝みたい。そしてあやまりたい。ゆるしてもらえないかもしれない。でも、最後にもう一度、もう一度だけ、お父さんの顔を…。でなかったら、死んでも死にきれない。 会えたら、お父さんにこう言おう。「私はもう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。だから、あなたが家でやとっている使用人の一人にしてください」。もしこの願いを聞いてもらえたなら、何とか生きていける。こんどこそ心を入れ替えて、一生懸命、父親のために働こう。今までの罪滅ぼしをしよう。 心にそう決めると、息子は、父親のもとへ、父のいるふるさとへと帰っていきました。
いったいどこにそんな力が残っていたのでしょう? 飲まず食わずで、ふらふらで、死にそうだった男が、父のもとに帰ろう、そう心に決めたとたん、自分の足でしっかりと立って、遠い道のりを歩き始めました。父のいるふるさとまで、歩きとおすことができました。この力は、いったいどこから、だれからもたらされたのでしょう? 
さて家では、父親がもう一人の息子、あの子の兄と一緒に暮らしていました。あれから、どれだけの年月が過ぎたことでしょうか。どこに行ったかもわからない。元気に暮らしているのか? 病気になっていないか? ある国は飢饉で食べ物がなくて、大変なことになっているという。あの国にだけは行かないでくれ。どこにいてもいい。安全にすこやかに、息子らしく元気でいてさえくれればいい。 父親には、毎日している日課がありました。毎朝、家の前の通りに出ては、道行く人びとの顔を見定めるのです。ひょっとしたら、あの子が、ひょっこり帰ってきはしないか? 一縷の望みをかけて、毎日毎日、朝昼、夕暮れどきまで、道行く人々をながめては、一日を過ごしていたのです。
そして、ついに見つけました。はるか向こうから、息子が歩いてくるのを、父親は見つけました。「まちがいない。あれはわたしの息子だ!」 息子はまだ遠く離れていたのに、父親の方が息子を見つけて、見つけると、憐れに思った父親は、走り出しました。この時代この国では、大の男が人前で走るなど、しません。それは使用人か奴隷がすることです。一財産を築いた人のすることではありませんでした。けれども父親は、なりふりかまわず、わが子に駆け寄ります。私の息子、私の息子、死んだと思っていた私の息子が、生きて帰ってきた。死んだ子どもがよみがえって、今わたしの目の前に立ち返って来た。父親は、愛するわが子を力いっぱい抱きしめました。
聖書の原文には、こう書いてあります。父親が両手を大きく開いて、上からおおいかぶさるように、息子を抱きしめた、と。おそらくこのとき、帰ってきた息子は、父親の前にひれ伏したのではないでしょうか。あるいは、お腹を空かせ、力つきる寸前の息子は、やっとの思いでたどり着き、父親の足元に倒れこんだのかもしれません。そんな息子を、両手で、上からおおいかぶさるように、その首を抱きしめました。何年・何十年ぶりに、父親は、愛するわが子を取り戻すことができたのです。
父の腕に抱かれる中、息子は言いました。心の中に秘めてきたあの思いを、父親に向かって口にします。「お父さん、わたしは天の神様に対しても、お父さんに対しても、とんでもない罪を犯しました」。ゆるしてください、とは息子は言いません。いえないのです。ゆるして、などと言える立場ではない。その資格もない。ただ一言、我に返った自分の口で、心から父親にあやまりたかったのです。 父親はすでにゆるしていました。失われた息子が、今日こそ帰って来る。そう信じて待っていたのが父親だったのです。心から罪を悔いて、謝罪を告げる息子の声をさえぎるかのように、父親の声が響きます。「さあ、皆のもの。この子に服を着せてやりなさい。指輪を、靴をはかせなさい。立派な子牛をまるごと料理して、この子のために、みんなで祝うのだ!」。なぜなら、「わたしのこの息子は、死んでいたのに生き返り」、わたしのところに帰ってきたのだから。「この子は、いなくなっていたのに見つかったからだ」。 このように一人の罪人が悔い改めて、神に立ち返るなら、大きな喜びが天にある。そう聖書は告げています。
このたとえで、イエス・キリストは、いったい何を、わたしたちに伝えたかったのでしょう? これは、わたしたち人間と、天におられる父なる神さま、との物語です。生きた物語です。わたしたち人間は、ながいこと、神様を見失って歩んできました。神様抜きに、自分が正しいと思った道を突き進んできました。この世界が、神様から与えられた世界とも知らずに。私という存在が、神から与えられた命ある存在だということを、忘れ去って生きてきました。気がつけば、自分自身とこの世界を、自分勝手に扱ってきたのではないか? そのため、この国もこの世界も、私の人生も、わが家庭も。あの息子のように、大変なことになってしまっているのではないでしょうか? 
神様を見失い、大変なことになってしまっているわたしたちを、しかし神様は罰しようとはなさいません。滅ぼそうともしません。むしろ、わたしたちが我に返って、神様のところに帰ってくるのを、だれよりも願っておられます。事実、神のもとへ帰ってみたら、わかります。神の愛がわかります。神様の胸に飛び込んでみれば、神がどれほど、わたしたちの帰りを待ち望んでおられたか。神の愛と憐みが、わたしたちの心に迫ってきます。
この神様と出会うところ、それが教会です。帰ってくるわたしたちを神は見つけ、わたしたちの方に駆け寄ってこられます。神の方から、わたしたちに近づいてこられるのです。この神を、イエス・キリストの父、わたしたちの天の父として、礼拝しています。 さきほどのたとえで、神様は、帰って来た息子に駆け寄り、上からおおいかぶさるように抱きしめた、といいました。これが神様の姿です。神は、わたしたちを見つけるため、天の高みの座を捨てて、この世界にまで降りてきてくださいました。イエス・キリストとなってこの世界に降り、帰る道、救いの道をわたしたちに開いてくださいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14章6)。イエス・キリストを信じさえするなら、だれでも、迷わず、神様のもとに帰ることができます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(同3章16)。
わたしたちにとって永遠の父であられる神が、まことの愛をもって、皆様方を、魂のふるさとへと招いておられます。世の中や人の心がどう移り変わろうと、私自身がどのように変わり果てようとも、神は、神だけは決して変わることなく、わたしたちを探し求め、わたしたちを救い続けておられます。このようなことができるのは、イエス・キリストの父なる神、ただおひとりです。  

(説教者:堀地正弘牧師)  

 「キリストの息吹」


(イザヤ書42章1~4節、ヨハネによる福音書20章19~23節)

 その朝弟子たちは、マリアから主イエスの復活の知らせを聞きました。しかし「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけていた。」(19節)鍵をかけて閉じこもっていたのです。ユダヤ人の弟子たちが、同じユダヤ人を恐れたというのです。ユダヤ人たちが、主イエスの命を奪ったからです。ユダヤ人たちは、主イエスを捕まえピラトの手を借りて十字架にかけました。今度は、自分たちの番だと弟子たちは思っていました。弟子たちには、主イエスを見捨てた後ろめたさもありました。今にもユダヤ人にたちが、自分たちを見つけて、ここから引きずり出して行くのか。恐れおののいていました。主を見捨てた罪を思いだし、死の恐怖に震えています。
そんな時、主イエスが来て弟子たちの真ん中に立ちました。扉には、鍵がかかっていたのにそれをものともせず、主は弟子たちの中に入ってこられたのです。『あなたがたに平和があるように』と言われ」ました。 20:「そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ」。弟子たちの前にいる主の手には、十字架で受けた釘の跡…、わき腹には兵士が突き刺した槍の跡が残っていました。「亡霊には肉も骨もないが、…わたしにはそれがある」(ルカ24章39)。この方は、亡霊などではないと分かったからです。わたしたちの罪のために十字架に掛かられた主イエスがここに来てくださった。主は最後の晩餐で約束なさったのです。弟子たちの恐れと悲しみを喜びに変えてくださると。「今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。復活された主に出会った喜びは誰にも奪いとることはできないのです。主は約束されたとおり、父から栄光を受けて、弟子たちのところに再び来られたのです。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内に居ることが、あなたがたに分かる」(ヨハネによる福音書14章20)。これは、父なる神と御子キリストの交わりにいる喜びです。
「イエスは重ねて言われました。『あなたがたに平和があるように』。主は平和があるように、と呼びかけました。平和の挨拶:シャロームは、ユダヤ人たちにとっては普通の挨拶です。しかし単なる挨拶ではありません。「わたしはあなたがたに平和を残し、わたしの平和を与える。それは、世が与える様に与えるのではない」(ヨハネによる福音書14章27)。この世が与えることのできない主の平和です。「主が受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、主が受けた傷によってわたしたちは癒された」(イザヤ53章5)。主が与えた平和によって、弟子たちには新しい道が始まります。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』」。弟子たちは、主に遣わされて、この部屋から出て行きます。そこでは、主を会堂から追い出し、迫害した人々も待っています。 22:「主イエスは、弟子たちに彼らに息を吹きかけていわれた。『聖霊を受けなさい。」主が二度の平和の呼びかけをなさった。その跡で主が息を吹きかけた。それが、弟子たちに与えられた目に見えるしるしです。聖霊とは、命を与える霊です。天地創造の時「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7)。天地創造の時は、地は混沌として闇が深淵の面にあり神の霊が水の面を動いていた。といいます。神が「光あれ」といわれたとき世界が始まりました。主が復活なさったとき死の恐怖におびえていた弟子たちのただ中に主が来られたのです。この世の光として来られた主が「平和があなたがたにあるように」といわれました。神の息、聖霊を受けることによって、アダムの命が始まりました。「だから、キリストの内にあるものは新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5章17)。弟子たちは、その時のアダムと同じように、主イエスによって新しく造られたのです。主イエスによって、弟子たちの新しい人生がはじまったのです。教会は、主イエスの平和と主の与える命の息によって、生ける神の教会となるのです。主イエスによって、弟子たちが世に遣わされ各地に教会が建って行きました。世に聖霊は、わたしたちの内に住んでわたしたちを罪から清める霊です。
23:「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」これは、わたしたちが自分の好き勝手に人を赦したり裁いたりしてもよいという意味ではありません。教会に託された務めは、主が招いてくださった人々に罪の赦しの福音を宣べ伝えることです。キリストによる赦しに人々を招くことが教会の務めです。「自分に罪がないというのなら、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの手紙一1章8~9節)。  

(説教者 堀地敦子)