2019年  礼拝説教

「信仰のたたかい」


(イザヤ書59章16~17、エフェソの信徒への手紙6章10~20)

平和を祈り願う季節を迎えました。「平和を実現する人々は幸いである」。主キリストの御言葉が聞こえてきます。平和の誓いを新たにするときです。
そういうなか、聖書はこう述べています。「主に依り頼み、主の偉大な力によって強くなりなさい」。「悪魔の策略に対抗して」、しっかりと「立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6章10~11)。なぜなら、わたしたちの戦う相手は、目に見える血肉・人間ではなく。この世と人びとの心を支配してやまない暗闇の支配者、悪魔だからです。
キリストの名によってわたしたちが祈り願い、目指している「平和」とは、神との平和に基づくものです。しかし、この平和を乱そうとしている者たちがいます。悪魔とその手下たちです。このためパウロを通し、神が世界中の全教会に呼びかけています。「悪魔の策略に対抗しなさい」、悪の力・罪の力にしっかり立ち向かうことができるように、「主キリストに依り頼み、主の力によって強くされなさい」と、声を大にして呼びかけています。
罪の力、悪魔の巧みな攻撃・誘惑に、わたしたちは日々さらされています。そしてそれに対し、わたしたちは本当に無力です。キリストの助け・力なしには、罪に立ち向かうことも、戦うこともできません。キリストがいてくださらなければ、立っていることさえできないのです。でも、キリストがわたしたちの味方でいてくださるなら、どんなに激しい悪魔の攻撃にさらされても、わたしたちは倒れません。キリストの側に立ち、キリストから離れずにいるなら、立っていられます。主のもとに立ち続けるなら、どれほど力のないわたしたちであっても、主キリストと共に、この戦いに勝利をおさめることができます。 信仰に生きようとするなら、だれもが「信仰の戦い」を経験します。すでに経験しています。目には見えないけれども確かに存在し、わたしたちを罪に誘う闇の力との闘いです。この戦いを避けることはできません。信仰を深めれば避けられる、とか、信仰生活をまじめに続けていれば、敵の方が逃げていく、というわけでもありません。この世で生きている限り、罪の誘惑は避けられません。信仰者は常に、この信仰の戦いを強いられます。キリストが再び来られる日まで、この戦いは続きます。われわれが地上にある限り、そうです。
霊的な戦いは、すでに始まっています。アダムとエバが罪に落ちた時から、滅びからわたしたちを救おうと、神が、罪の力と戦ってこられました。そして二千年前、キリストの十字架の死によって、神は悪の力・罪の力・死の力に圧倒的な勝利をおさめました。すでにキリストは勝利されています。キリストを信じて教会の一員とされたときから、わたしたち一人ひとりは、キリストの勝利の列に加えられています。わたしたちが霊の戦いに挑むのは、キリストの勝利にあずかるためです。罪と悪にすでに打ち勝たれたキリストの勝利を受け継ぐ者となるためです。
たとえていえば、かつて日本でくりひろげられた合戦に似ています。かつて源平がしのぎを削っていた時代、合戦は大将戦でした。大将同士が進み出、名乗りを上げて、一騎打ちをします。一騎打ちで相手を負かした方が、勝者です。大将が負けた側は、敵の前から逃げ出します。たとえ数で勝っていたとしても、大将が負けたら、負けが決まります。大将の力によって、勝ち負けが決まるのです。大将が勝利をおさめた側は、逃げ出す相手を蹴散らすため、前進します。
キリストは二千年前、わたしたちの罪のために尊い命を献げて、神の勝利をすでに打ち立てました。悪魔や悪霊たちを完膚なきまで打ちのめしました。彼らは世の終わりに、永遠の刑罰を受けるまでの間、地上で働くことをしばらく許されているにすぎません。 だからといって油断してはなりません。キリストだからこそ、悪魔と一騎打ちをし、完全な勝利を勝ち取られました。しかしそのために、キリストご自身、一度は命を落とさねばならなかったのです。血みどろの戦いを、救い主ご自身が、悪魔と繰り広げました。信仰も力もなく、罪に弱いわたしたちを守りかばうために、悪魔の刃にキリストは身をさらしたのです。十字架の上で、主は、徹底的に悪魔と戦い、身を挺してわたしたちを守り抜いてくださいました。だからこそ、今わたしたちは、こうして皆で、神の前に進み出て、神から恵みと祝福を受けています。もし主キリストが、わたしたちのために、わたしたちに代わって戦ってくださらなかったなら、わたしたちの救いはありませんでした。神の国と永遠の命を受け継ぐことができるのは、キリストが悪魔ととことんまで戦い、体や魂に深い傷を負って、完全な勝利をおさめられたからです。
キリストに依り頼みましょう。主キリストを心から愛し信頼し、この方から離れずにいることです。そうすれば、わたしたちは皆、キリストの偉大な力によって強くされます。激しい戦い・試練の中でも、頭を上げて、キリストの許に立ち続けることができます。この戦いは、忍耐をもって、信仰と希望に立ち続ける戦いです。武器を手に取って、この手で相手を打ちのめす戦いとは違います。そのような戦いは、キリストの戦い方ではありません。
むしろ、「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げ、しっかり立つことができるように、神の武具を身につけなさい」。 ここで、身に着けよ、と言われている「神の武具」を一つひとつ見てください。「真理の帯」、「平和の福音を告げる準備」である「履物」・靴、正義の胸当て、信仰の盾、救いの兜、どれを取っても、攻撃用の「武器」は見当たりません。帯も靴も胸当ても盾も兜も、どれも激しい攻撃からわたしたちの命を守ってくれる「防具」です。ただ、一つだけ武器がでてきます。「霊の剣」すなわち神の言葉を手に取って、霊的なこの信仰の戦いに勝利をおさめなさい。そして、どのような時にも目を覚まして、根気よく祈り続けなさい。そう勧められています。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではありません。悪魔は、わたしたちに気づかれないように、巧みに罪に誘ってきます。ですから、この世のもの、われわれがもともと手にしているもので、どうして太刀打ちできるでしょう。わたしたちの知恵や力や経験は、この戦いでは、まったく役に立ちません。悪魔がほくそえみ、笑うだけです。しかし、神からの防具を身に着けたら? 悪魔はたまりません。特に16節を見てください。「信仰を盾として取りなさい」、「悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができます」。こんな盾が果たしてあるでしょうか?
日本でもヨーロッパでも、鉄砲や大砲が発明されるまでは、弓矢がもっとも威力ある武器でした。特に矢の先に、油を含ませた布を巻き、火をつけて浴びせかけられたら、大変です。堅固な城も、たちまち燃え出し、焼け落ちてしまいます。この火の矢を防ぐために、皆苦労して、大きな盾を作りました。盾を鉄で覆ったそうです。しかしそのような特別な盾をもってしても、火の矢を消すことなどできません。
ところが、信仰の盾は、悪魔から打ちかけられる火の矢を、ことごとく消し去ることができるのです。矢を防ぐだけでなく、恐ろしい火を瞬く間に消し去る力がある。このような盾は、歴史上存在しません。人間の手で作れるものではないからです。 われわれが身につけることを許されているのは、「神の武具」です。神の手による特別な防具です。キリストを信じる者に、神が与え授けた心強い味方です。体だけでなく、心と魂、われわれの信仰、永遠の命を、どんな危険からも守り通してくださいます。そういう盾です。
イエス・キリストを着なさい。キリストを身に着けなさい。この御言葉を思い起こします。キリストを身にまとう。霊の戦いでも、これが当てはまります。真理の帯、福音を宣べ伝える靴、信仰の盾、救いの兜、これらは皆、キリストが与えてくださったもの。いえ、イエス・キリストご自身です。キリストご自身がわたしたちの全身全霊を包み、今までもこれからも、とこしえに守ってくださいます。今日そしてこれからも、イエス・キリストを肌身離さず身にまとって、定められた信仰の戦いを勝ち抜いていくのです。それがわたしたち教会です。
その際、「霊の剣」、すなわち神の言葉を手に取って、根気よく祈り続けなさい。そう言われています。み言葉と祈りこそ、最高最大の武器です。「神の言葉は生きており…どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ4章12)。神の言葉を手放してはいけません。祈ることを止めたり、あきらめてもなりません。み言葉と祈りなしに、信仰を保つことはできません。み言葉と祈りこそ、どんな時にも、最も頼りになる武器です。悪魔のあらゆる攻撃から、わたしたちを守ります。
祈りについて、パウロはこう言っています。「わたしのためにも祈ってください」。適切な言葉を用いて、大胆に福音の神秘を告げ知らせることができるよう、語るべきことを話せるように、わたしのためにも祈ってください。
キリストの武具で身を固めたわたしたちは、み言葉と祈りの力を信じます。み言葉と祈りに集中します。それが霊的な信仰の戦いに勝利をおさめていく、ただ一つの道です。このとき、パウロが求めているとおり、自分のためだけに祈るのでなく、お互いのために祈ることが大切です。なぜなら、悪魔の巧妙な攻撃の一つが、互いを反目させることだからです。どれほどもっともな理由があったとしても、内部での争い、反目はいけません。それは悪魔を喜ばせるだけです。神は決してお喜びになりません。戦うべき相手は血肉・人間ではなく、悪魔です。罪に対して、信仰をもって、粘り強く戦うべきです。牧師も信徒も長老も、教会に集う者は皆、キリストを身にまとい、同じ御言葉を手にとり、互いに祈りあって進みます。そこに必ず道が見えてきます。教会の進むべき道、とるべき道が、神から示されるでしょう。
地上にある限り、信仰の戦いは続きます。み言葉と祈りからわたしたちを遠ざけ、救い主から引き離そうと、悪魔は機会を捕らえて、わたしたちを狙っています。試練を一つ乗り越えたら、また別の試練が襲ってきます。しかし、この戦いには必ず終わりが来ます。世の終わりに主が再び来られるその日、すべての戦いをキリストが終わらせてくださいます。神の国の扉が、わたしたちの目の前に開かれる日は必ずやって来ます。そのときまで、信仰と希望を胸に、キリストを心から愛し信頼して歩みましょう。キリストから離れずにいれば、どんな逆風、困難、試練、誘惑に襲われても、主によって耐え忍ぶことができます。悪魔から火の矢が雨のように降り注いだとしても、キリストが盾となり救いとなって、われらを守り通してくださいます。キリストにある限り、われわれは決して倒れることはありません。キリストと一緒に、あらゆる悪に対抗し、信仰に立ち続けます。
救いと勝利はすでにキリストのもの、キリストにあってわたしたちのものだからです。  

(説教者:堀地正弘牧師)  

「バラムとロバ」


(民数記22章21~31節))

 イスラエルは、あと少しで約束の土地に入ろうとしていました。モアブの王バラクは、イスラエルを怖いと思いました。なぜ怖かったのでしょう。イスラエルは、エジプトで430年も奴隷をしてきました。今は、神さまの憐れみを受けて自由になっています。イスラエルを追いかけたエジプトの最強の軍も破った。このあたりで一番強いといわれていたアンモン人の大軍もイスラエルに破れてしまいました。神さまがイスラエルを守っておられたからです。イスラエルの勢いは止まりません。ヨルダン川のモアブ平野に来ていました。モアブの王バラクは、考えました。このままでは、イスラエルに勝てない。誰かに頼んでイスラエルを呪ってもらおうと思ったのです。
そこで、預言者バラムを思いだしたのです。彼は、当時最も力がある預言者の一人でした。バラクを呼びだすために、王は沢山の使いの人々を送りました。使いの人は、沢山のプレゼントを持ってバラムを誘いにきました。「バラムさん、わたしたちと一緒に来てください。イスラエルを知っていますか。あの人達は、エジプトに勝ち、このあたりで強いアモリ人の軍隊も破ってわたしの近くに住んでいる。とても強い。今や全世界に拡がる勢いです。今すぐ来てください。イスラエルを呪ってください。あなたは、このパレスティナ一番の預言者、いや世界一の預言者でしょう。あなたがイスラエルを呪えばわたしはあの人達に勝てると思う。あなたなら、できます。「あなたが祝福する人は祝福され、あなたが呪うものは呪われることをわたしは知っている」(民数記22章6より)。
バラムは、迷います。自分を高く評価されて、沢山のプレゼントもうれしい。でもイスラエルを呪うのはさすがに怖いと思いました。バラムは言いました。「待ってください。すぐにはお返事できません。あなた方は、今夜家に泊まってください。わたしは神さまにお祈りして聞いてみます。主が、わたしに何と仰るか聞いてみましょう。」その夜、主はバラムに現れて言いました。「彼らと一緒に行ってはいけない。イスラエルを呪ってはならない。彼らは祝福されている」。翌朝、バラムは使者たちに言いました。「済みませんが、お帰りください。主は、イスラエルを呪ってはいけないといわれました」。こう言われて使者たちは帰りました。そしてバラク王に報告しました。「バラムは、断りました」 それでもモアブ王は諦めません。もう一度バラムを誘います。前に送った使者たちよりも人数を増やして、しかも身分の高い人々を送りました。前よりも沢山の贈り物も持たせました。使者たちは、バラムに言います。「わたしたちを一緒に来てください。そうすれば、あなたに特別よくしてあげます。ほしいものは何でも差し上げます。あなたの言われることは何でもします。ですから、どうかイスラエルを呪ってください。」ここまでいわれて、バラムは簡単に断れなくなります。「主がわたしに何と言われるか聞いてみましょう」と言いました。今度は、神様も別のこたえを下さると期待したのでしょうか。その夜、神さまはバラムに現れてこう言いました。「あの人たちと、一緒に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけをしなさい」。
翌日、バラムはロバに乗って出かけました。ところがバラムが出かけると、神様の怒りが燃え上がります。バラムの行く先に、主の天使が現れました。天使は、剣を抜いて立っています。それは神さまが怒っておられたしるしです。ロバはとても驚きました。天使が剣を抜いて立っていたからです。ロバは、ブドウ畑の方へ入って行きました。それで、バラムはロバを撃ちました。主の天使は、ぶどう畑の狭い道に立っています、両側には石垣がたっています。ロバは天使を見て、石垣に体を押しつけバラムの足も石垣に押しつけられてしまいました。バラムは、またロバを撃ちます。天使は、さらに近づいてロバは右にも左にもよけることができません。ロバは、バラムをのせたままうずくまってしまった。バラムは、怒ってロバをひどくなぐりました。バラムには、天使が見えていなかったのです。バラムは、三度もロバを撃ちました。
主は、ロバの口を開かれました 。「わたしが何をしたのです。なぜわたしを三度も打つのですか。」。バラムはロバに言い返します。「お前が勝手なことをするからだ。もし剣を持っていたら、すぐにでもお前を殺してやるのに」。それでロバは言いました。「今までわたしがこんなことをしたことがありましたか?」。「なかった」とバラムは言いました。
その時主は、バラムの目を開かれました。やっとバラムにも天使が見えました。見ると、天使は怒って剣を抜いて立っています。天使はバラムに聞きます。「なぜ、このロバを三度も打ったのか。…ロバがわたしを避けていなかったら、きっと今は、ロバは生かして、あなたを殺した」。バラムは言いました。「わたしは罪を犯しました。知らなかったのです。もしも、神さまの御心に反するならわたしは帰ります。」。天使は言いました。「行きなさい。ただし主が示されたことだけを語りなさい。」。バラムはその通りにした。バラムは、イスラエルを呪わず祝福します。バラムの預言は後のキリストの出現を思わせる歴史的預言でした(民数記24章17節)。
その後、バラムはどうなったのでしょう。バラムは後に、イスラエルを堕落させようとして、若い女性を送ります。彼女の誘いに乗った一部のイスラエル人たちは、異教の神バアルを礼拝し、バアルを拝んだ人たちは殺されました。それは十戒の第一戒に違反するからです。イスラエルを誘惑した事件の首謀者だったバラムも殺されました。バラムなぜこんなことをしたのか。神さまの声を直接聞いた人がなぜなのか、それは謎のままです。
一方、バラムに三度も撃たれたロバ。バラムには、見えなかった主の天使を見ました。鈍いイメージの強いですが辛抱強い動物でもあります。三度もバラムに打たれながらも、なおバラムを背負い続けました。愚直なまでに、主人を守ろうとしたロバは主イエスの姿を想わせます。主イエスも、弟子のペトロから三度知らないといわれました。主はそのペトロを愛し罪から救いました。立ち直ったら兄弟を力づけよと主イエスは言われました。ペトロばかりではありません。人間は、何度も主に逆らってきました。しかし主はわたしたちを背負い続けました。十字架の死に至るまで父の御心に添って歩んだ主イエス、誠実な主イエスがわたしたちの救い主です。   

 説教者 堀地敦子

「主の聖別」


(レビ記10章1~7節、ルカによる福音書12章42~48節)

現代のわたしたちは聖なるものへの恐れがなくなっています。だからこそこの話は重要です。レビ記のテーマは神が聖なることを証しすることだと言ってよいでしょう。主の御前から火が出て、アロンの息子ナダブとアビフの二人の祭司が命をとられました。その一週間前、アロンと四人の息子たちが正式にイスラエルで最初の祭司に任職されました。(レビ記8章30節)。八日目にアロンによって初の献げものが執行されました。贖罪の献げもの、焼き尽くす献げもの、和解の献げものを献げ、モーセとアロンが臨在の幕屋から出てきて、民を祝福する。すると主の御前から火が出て祭壇に献げられていた献げものをなめ尽くしたのです。
その後です。アロンの二人の息子ナダブとアビフは、めいめい香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたきそれを主に献げました。しかし、それは主の命じられたものではなかったのです。主の御前から火が出て、二人を飲み込んでしてしまいます。こうして、ナダブとアビフは主の前に死んだのです。何が違反に当たるのでしょうか? 祭司の務めは、民を代表して主に犠牲の献げものを献げることです。聖丸茂のと汚れた者の区別をするのです。汚れた者は主に献げることはできないからです。献げものについてルールは、いつもモーセを通じ、全イスラエルに伝えられていたのです。一般の人に聖別の油を塗ってはならない(出エジプト30章33、供え物は祭司とその家族以外食べてはならない。アロンの子孫以外のものは主の前で香を献げてはならない(民数記17章)。ナダブとアビフはアロンの息子で祭司に任職されています。彼らが主に香をたくことは許されています。
但しナダブとアビフは、主が認められたものとは異なるものを献げていました。「主の御前にある祭壇から炭火をとって香を香炉に満たし、細かい香草の香を両手一杯に携えて垂れ幕のおくに入り…」(レビ記16章12節)。彼らは知らなかったのでしょうか。そうではありません。主は前もって、モーセを通して、献げものについて規定を伝えています。主に献げる炭火は祭壇からとってこなければならないのです。さらに 「アロンは、その祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れにともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げものを絶やさないようにする。あなたたちはその上で規定に反した香や焼き尽くす献げもの、穀物の献げものぶどう酒の献げものを献げてはならない。年に一度、この香をたく祭壇の四隅に贖罪の献げものの血を塗って、罪の贖いの儀式を行う。代々にわたって年に一度、そのところで罪の贖いの儀式を行う。この祭壇は主にとって神聖なものだからである。」(出エジプト30章7~9節)。主の前に灯火をともす日常の務めについての規定です。それは、代々にわたって主の命じられた通りに守るべきものだと言います。 ナダブとアビフ二人は、知らずに過ちを犯したのでなく知っていて異なる炭火を献げています。小さなことだと思ったのかもしれません。「小さなものに忠実でない者に」より多くのもの、偉大な恵みを任せて下さるはずはありません。
「わたしに近づく者たちにわたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を表そう」と主が言われたとおりだ。」レビ記のテーマは、主の聖なることを示すことです。聖なる主の顔を直接見たらわたしたちは滅ぼされてしまうのです。(イザヤ6章4節)。すべての民は聖なる者となるために招かれています。しかし、主を侮って撃たれてしまう人が何と多いことでしょう。「主に近づく祭司達も身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい」(出エジプト19章22節)
ナダブとアビフの遺体は、いとこ達ミシャエルとエルツァファンによって直ちに運び出されました。聖所を汚さないためです。死んだ二人の父アロンと兄弟イタマルとエルアザルは、二人の遺体に触れることも許されない。泣いたり、髪をほどいたり、衣服を裂いたりしてはならない、と主はいわれました。彼らは主に聖別されている。そしてこの後もアロンたちは主に仕えなければならないからです。代わりに親族の二人が彼らを運び出した。
イスラエルの家は、火によって焼き滅ぼされたことを悲しむがよい。主は、ナダブとアビフの死をイスラエル全体で哀悼するように言いました。   
神の栄光があらわれる時、罪深いわたしたちは滅ぼされるかもしれないのです。神を畏れもしないわたしたち、それでいて、罪のために聖なる神に近づくこともできないわたしたちのために神が人となられたのです。それはわたしたちの罪を背負うためです。この話は、神の厳しさ峻厳さを教えています。現代人は愛の神、赦しの神だけを求めます。神さまがわたしたちを造られたのだから、わたしたちの罪を赦し救うのは当たり前だ。それが神さまのお仕事でしょう。などと思っていないですか。それでは、神さまへの感謝も何もなくなって隣人に対しても横暴になってしまうでしょう。神が裁きを行う方でもあります。裁きを行うことが出来ない神さまがわたしたちを救えるはずありません。聖なる神が義なる神がわたしたちを憐れんで下さる。主の憐みゆえにわたしたちは救われるのです。わたしたちが背負うべき厳しい裁きを主イエスが背負われたのです。
聖なる神の憐みゆえにわたしたちは神に近づくことが許されています。わたしたちにとってこの話は心に刻むべきものです。主こそがわたしたちの唯一の神であり、聖なる方であり、おそれ敬うべき方なのです。「感謝の念を持って、畏れ敬いながら主に仕えていこう。実にわたしたちの神は焼き尽くす火です」(ヘブライ人への手紙12章28~29節)。焼き尽くす火のような主の熱心によってわたしたちは救われます。   

(説教者:堀地敦子牧師)

「キリストを着る」


(詩編22編17~19節、ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節)

わたしたちは皆、すでに神の子です。イエス・キリストを信じているからです。キリストを信じて洗礼を受けたわたしたちは、恵みによって、すでに神の子とされて生きています。
キリストによって「神の子とされている」。それは、「キリストを着ている」ことだとパウロは申します。上着のように「キリストを着て」生きている、それが、わたしたちクリスチャンなのです。
パウロは、このように日常の暮らしー服を着る、衣をまとうことーになぞらえて、わたしたちキリスト者の生活を語ろうとします。「キリストを着る」というたとえは、ほかにもローマ13章14、エフェソ4章24、コロサイ3章10節などに、くりかえし出てきます。 実際、日々わたしたちは、服を着替えて生活しています。月曜日、会社に出かけるときにはスーツを身にまとい、工場では作業着を着て、仕事をします。家庭では、料理をするときにはエプロン・割烹着を着て、入学式や卒業式には礼服で、同じ礼服でも結婚式とご葬儀では、ネクタイの色がちがいます。家でくつろぐときは部屋着で、夜休む時にはパジャマや寝間着など、一日の中でも、その時その時に応じて、服を着替えます。
けれどもパウロは言うのです。キリスト者とは、いつもキリストを身にまとって生きる人たちなのだと。どんなときにもキリストを着て、どこにでも出かける。都合のよいときも悪いときも、キリストを決して脱がない。それが神を信じる者たちの生き様なのです。まちがっても、日曜日だけキリストを着て、家に帰ったら普段着に着替え、キリストを脱いでしまう。そういうことにならないように。月曜日から一週間、ずうっと仕事着や部屋着で過ごし、日曜日の朝になって、あわててキリストを着る。日曜日が来るまで、キリストを、クローゼットの奥深くしまい込みなどせずに。どんなときにも、キリストを肌身離さず着ている。いつも同じ服ばかりで、などと言わずに。また、人びとからそう言われてもひるむことなく、わたしたちは胸を張って、イエス・キリストを着て過ごしていきたい。ここに、わたしたちの生きる希望と幸いがあります。なぜならキリストを着ている者は、だれでも皆、神の子だからです。キリストを着ている者は、たとえ中身がどのような者であっても、神の子なのです。キリストを着ている者だけが、神様の目に、神の子どもとして映るからです。
今、「胸を張って」キリストを身にまとおうと申しました。けれども、自分を振り返るとき、決してわたしたちは「胸を張る」ことはできないのです。なぜなら、わたしたちは誰一人、イエス・キリストを身にまとうには、ふさわしくないからです。罪のない、神の栄光を現したキリストを、晴れ着として身にまとうなど、そのような値打ち・資格が、はたしてわたしたちにあるのでしょうか? 少し歴史の話をします。今でこそ服装はだれもが自由ですが、何百年か前までは、日本でも外国でも、身分によって服装が決まっていました。江戸時代でいえば、武士には武士だけが身にまとうことのできる服装がありました。髪型だってそうです。武士と町人では髪型はちがっていました。服装や髪型で、身分が一目でわかるようになっていたのです。もしも武士でない人が、勝手に武士のいで立ちをし、髪型も変え、刀を身に帯びていたら、どうなるでしょう。士農工商という身分制度を乱した罪で、罰を受けたことでしょう。 これに比べたら、わたしたちは、何と自由で幸せな時代を生きているのでしょう。だれがどんな服を着ても、だれも文句を言いません。奴隷や貴族などの身分制度も、はるか昔のことです。
このように自由で幸せに思える現代ですが、なおも、わたしたちを縛っているものがあります。罪です。罪という闇の力です。現代日本には、もう奴隷の人はいません。にもかかわらず、わたしたちは罪という闇の力に捕らえられ、がんじがらめにされています。罪の奴隷です。愛すべき人びとを心から愛することができず、ゆるすべき人びとを心の底からゆるせない自分がいます。怒りやねたみから自由になりたいのに、罪を捨てようとすればするほど、罪がわたしたちにまとわりつき、からみついてきます。 目には見えない罪の力が、わたしたちを神から遠ざけています。愛に生きることよりも、自分本位に生きるように、罪がわたしをそそのかします。神が与えた人と人との暖かい交わりからも遠ざかり、わたしがわたしになることを、罪が妨げています。神を愛し、自分自身を受け入れ、隣人を愛することができなくなっています。どれほど文明が進んでも、罪という点では、現代人のわれわれは、昔の人と何ら変わりません。 このようなわたしたちが、いったいどうして、救い主キリストを着ることができるのでしょうか?
今年の教会全体修養会で、全体会のまとめに、講師の小泉健先生がこう述べておられました。「キリストに倣う」とは、キリストに似た者、キリストのイミテーションになることです、と。イミテーションという英語は、「倣う」「模倣する」という意味です。 これを聞いて私は思いました。イミテーションという、半ば日本語となっている言葉は、「倣う」というよりも、偽物とかまがい物という意味の方で広まっているのではないか、と。
イエス・キリストに似た者とされるべく、キリストに倣おうとしているわたしたちですが、結局は、キリストのイミテーション・偽物・まがい物にしかなれないのではないか? 事実、世の中には、宗教など弱い人間のすることで、教会は偽善者の集まりだと言ってはばからない人たちもいます。いえ、人にどう思われようとかまわないのです。何よりも、わたし自身が、果たして本当に、キリストに似た者となれるのか? 神の子と呼ばれる値打ち・中身が、どれだけあるのか? うなだれるほかありません。 ところがパウロは言うのです。いや、あなたがたがすでに神の子とされている。それは、あなたがた自身の値打ちや実績によるのではない。あなたがたはキリストを信じて洗礼を受けている。だから、あなたがたはキリストを着た、神の子なのです、と。
どれほど努力し積み上げても、キリストには遠く及ばない。偽物にしかなれない、そんなわたしたちです。しかし、キリストに「似た者となる」のには、もう一つの道があるのだ、とパウロは言っています。それは「神の子どもとされる」道です。「子どもは必ず親に似て」いきます。もしわたしたちが、罪の子のままなら、キリストには遠く及びません。でも、もし罪の子から神の子にされたならば、どうでしょうか?
わたしたちの心、また魂は罪に冒されています。心の奥底にまで罪の力が入り込んでいます。しかし、この闇の力を、イエス・キリストが打ち負かしました。ご自身の命を十字架で捨てて、神が、わたしたち罪人を救ってくださるようにと、キリストが文字通り命がけで祈り願ってくださいました。神の子キリストの祈りを、神は聞き入れてくださいました。
キリストが十字架にかけられたとき、キリストが身につけていた衣はひきはがされ、死刑執行した兵士たちの手で戦利品のように分けられました。詩編22編19節にあるとおりです。
キリストを信じて、わたしたちは洗礼を受けました。洗礼を受けたとき、わたしたちは皆、キリストの十字架に等しくされました。罪の子である私を、キリストがご自身の手で葬られました。そして洗礼の水の中から引き揚げられたわたしは、キリストの復活に等しくされ、新しい命に呼び覚まされました。キリストと共に死んで葬られ、キリストと共に新しく産声を上げたわたしたちに、キリストは御自分の衣を着せてくださったのです。 この衣は、十字架のとき、キリストが身にまとっていた神の子の衣であり、罪人たちの手ではぎとられた衣です。今わたしたちは、このキリストという衣を身にまとうことが、信仰によって許されています。
キリストが、わたしたち罪人の晴れ着となってくださいました。わたしたちの残る罪をも、キリストは、ご自身の衣で覆い隠し、キリストに似た神の子として、神の前でわたしたちを永遠に生かしてくださるにちがいありません。 だから、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送る」ことが(エフェソ4章24)、このわたしにもできるのです。 はかり知れないこの恵みを、神は、あのエデンの園のときから、はっきり示しておられました。創世記3章21節です。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。
アダムとエバがゆるされざる罪を犯し、エデンの園から追放されたときです。神は自らの手で毛皮の衣を作り、裸であったアダムとエバに着せられました。この皮の衣こそ、キリストです。罪の中で、裸で凍えるわたしたちに、神が、キリストという衣を着せてくださったのです。
再び神のもとに帰ってくる日まで、キリストを身にまとい、キリストにならうように。キリストにならって、いつも神に祈り、キリストと共に、神を父と呼んで生きるように。そうするなら、終わりの日に、あなたがたを一人残らず、キリストに似た神の子としてあげよう。そこにはもはやユダヤ人もギリシア人も日本人もなく、奴隷も自由人も、男性も女性もない。イエス・キリストによって生み出された新しい神の子どもとして。まがいもの・偽物などではない。名実共に、キリストに似た、神の子としよう。その日その時まで、キリストの約束を信じ、主の言葉によく聞き従いなさい。主と共に、この道を歩み通しなさい。このようにして、永遠の約束を、キリストを通して受け継ぐのです。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「心と耳に割礼を」


(エレミヤ書4章4節、使徒言行録7章49~53節)

使徒言行録7章は、ステファノ最後の説教です。彼は、教会の最初の殉教者として知られています。
イエスが天に挙げられた10日ほど後、五旬祭の日に聖霊によって教会が生まれました。教会は「信者達が皆一つになってすべての物を共有し、…おのおのの必要に応じて分け合った。…主は救われる人々を日々仲間に加え」(使徒2章44~47)。教会は、迫害に合いながらも、皆が一つになってキリストを宣べ伝えたので教会のメンバーは一人また一人と増し加えられて行きました。仲間が増えた。そこで問題も起こります。日々の分配のことで、ヘブライ語を話すユダヤ人、とギリシャ語を話すユダヤ人(もとはユダヤ人だが、移民などで長く外国暮らしをした人たち)の間にトラブルが起きたのです。そこで教会は、使徒たちを助けるために、執事を選ぶことになったのです。
ステファノは、執事に選ばれた7人の一人で、7人の中でもとくに信仰と聖霊に満たされた人でした。彼を通して神の業が行われました。「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(使徒言行録6章8)。神の業がますます進んで行くと思われました。
ところがそれをよく思わない人が出てきたのです。ステファノに敵意を持ったのは、キレネとアレクサンドリアの出身でいわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人たち、キリキア州とアジア州出身の人たち(使徒言行録6章8節)でした。 解放された奴隷の会堂に属する人達とは、どんな人たちでしょう。もとは、戦争でローマの捕虜とされ、奴隷になっていたユダヤ人たちです。彼らの中で奴隷から解放され、自由になった後にエルサレムに戻って自分たちの会堂を持つようになった人々がいました。おそらく彼らは、ギリシャ語でステファノと議論し歯が立たなかった。今度は民衆や長老、律法学者達をたきつけてステファノを逮捕させたのです。
「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。…『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろうといっているのを聞きました』」(使徒6章13~14)。ステファノが訴えられたのは、モーセの律法と神殿をけなしたした咎によるものです。。主イエスが裁判に掛けられた時を思い出します。主イエスも、安息日の律法を破り、神殿破壊を企てたと言いがかりを付けられたのです。
51:「かたくなで心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっています」。
割礼とは、アブラハムの時に始まって、イサク、ヤコブへと受け継がれて来た習慣です。体にしるされた神と民の契約のしるしです。無割礼の者は、民の間から断たれる。とされています。但し、イスラエルの荒れ野の40年の放浪の間に生まれた男子は、約束の地に入るまで割礼ができなかった(ヨシュア5章2~9)。 そうしたことは、問題にはされていません。割礼は、主に心を開くための体に記されたしるしです。心の包皮を捨てることであったのです。約束の地に入り定住した後に、イスラエルの中から主に背く世代が起こりました。イスラエルは、主が建てた預言者モーセに逆らい、定住した後も主に遣わされた預言者達に度々逆らって来ました。荒れ野で主が「あなたがたはかたくなな民である。」といわれています。預言者達が語った厳しい言葉はかたくなな者たちが心を開くためでした。「彼らの頑なな心が打ち砕かれ、罪の罰を心から受け入れるならば、そのとき、わたしはヤコブとのわたしの契約、イサクとのわたしの契約、アブラハムとのわたしの契約を思い起こし、かの地を思い起こす。」(レビ記26章41)。
51「来るべき正しい方について預言した人々を殺しました」。預言者達の言うことも聞き入れず、正しい方が来ることを預言した人々を殺しました。神の民は好き勝手に振る舞ってきました「彼らは背き主の聖なる霊を苦しめた。」(イザヤ63章10)。モーセの時代から、王国の時代、捕囚の時代、人々は預言者に逆らったのです。
聖霊への反逆は特に預言する霊に対する反逆であったのです。
52:「いったいあなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか?」。自分たちは、決して預言者を迫害したりしない。自分たちは、福音を正しく語られたら、きちんと聞く耳を持っていると思っています。しかし実際にはそうではありません。偽預言者を賞賛し正しい人を排除してしまう。それがわたしたちの罪です。「あなたたちは不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の祈念碑を飾ったりしている…『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかった』といっている」(マタイ23章29)。主がこう言われたのは何も、2千年前のユダヤ人達のことだけではないのです。 もうすぐ8月です。8月15日は、日本の教会では平和記念日です。七十数年前の戦争を覚えて平和を誓います。二度とあの時のような悲惨な戦争をくりかえさない、と。そして、もしあの時代にわたしたちが生きていたら、決して戦争に賛成しないだろう、と思うかもしれません。しかし、実際にわたしたちの時代に同じようなことがあったらどうなるのか。もしかしたら、戦争に協力してしまうかもしれない。
信仰の事柄についてはなおさらです。もし我々が預言者の時代に生きていたら、預言者を迫害し、新約の時代に生きていれば使徒たちを迫害する側につくかも知れないのです。だれの中にも、そういう一面がある。でも我々は、そういう自分に気づかない。それが罪です。「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか?」これはわれわれに問われていることです。わたしたちも、ステファノを殺した彼らと同じ過ちを犯すことは十分ありえます。
「今、あなたがたは裏切る者、殺すものとなりました。天使たちを通して律法を与えられたのにそれを守りませんでした。」。 天使たちとは、神が遣わした者、預言者のことを指してもいます。「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて証ししておられます。」(ヘブライ人への手紙2章2~4節)。天使から語られた律法それ以上のもの、すなわち福音を、わたしたちは受け取っています。福音は、主イエス御自身が最初に語られ主イエスが身を以てしめされた救いのことばだからです。
ステファノは、この日人々から石を投げられて殺されました。彼が殺されたことをきっかけに、人々は散らされていきました。キリストが、神を冒涜し、人々を惑わしたといわれたように、ステファノも神を冒涜した汚名を着せられて死んだのです。 「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである天には大いに報いがある」(ルカ6章22)。ステファノの死の後も、歴史上の教会で正しい人が迫害にあい倒れたこともあります。しかし、一人が倒れての次の世代の者が使命を担って行きます。世の終わりまで神の御業は必ず成し遂げられます。   

(説教者:堀地敦子)

「キリストの似姿へ」


(創世記1章27~28節、フィリピの信徒への手紙3章20~4章1節)

今年も早、半年を過ぎました。「キリストに倣うー互いに愛し合いなさい」を目標に、年度後半の歩みに入っています。そこであらためて問うてみます。なぜ、キリストに倣うのでしょうか? キリストに倣って、何を得ようとしているのでしょうか? キリストのような立派な人になりたい。キリストのような愛の人になりたい。どんな人が来ても、キリストがしたように、愛していけるようになりたい。どんな人でも、どんなことでも許せる人になりたい。だから、キリストに倣うのでしょうか? 聖書はこう言っています。わたしたちが主キリストに倣うのは、本国を天にもっているからです。「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3章20)。「わたしたちの国籍は天にあり」、あるいは「わたしたちの故郷は天にある」。そう言ってもよいでしょう。
「しかし、わたしたちの本国は天にある」。この「しかし」は、ある現実へとわたしたちを引き戻します。それは、わたしたちの罪の現実です。キリストのようになど、決して生きてこなかった。生きてこれなかった自分がいます。「わたしに罪を犯す者をすでに赦してきたように、わたしの罪をも赦してください」。この祈りを、ほんとうには祈ってこなかった。主の祈りの一つにさえ、生きられないでいる私がいます。神の国に国籍を持つなど、ふさわしくない私です。にもかかわらず天の父は、おっしゃってくださるのです。いいや、「あなたがたの国籍は天にある」と。 そればかりか、神様の言葉はこのように続きます。
「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(20節)。
「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださるのです」(21節)。 「わたしたちの卑しい体」とは、罪の体のことです。どんなに心で望んでも、キリストのような愛には生きられない。「敵を赦し、愛しなさい」と言われてもできない。神と人を愛するのとは正反対に、罪を愛し、自分本位で生きていこうとしてしまう。そのようにわたしたちの心と体は、いつも悪に傾いています。だから、このような体、存在のままで、神の国で永遠に生きることなどできるはずもありません。主を愛しているつもりが、いつの間にか、キリストよりも大事なもの。キリストよりも優先させてしまう自分が、わたしの人生にどっかりと腰を据えています。「キリストの十字架に敵対して歩む者が多いのです」と、パウロは涙ながらに訴えています。それは自分のことではなく、だれかほかの人のことだと思ってきました。でも、どうやらそうではない。ほかならぬこの私のことをで、パウロは涙を流している。聖書の言葉から、本当の自分が何であるかに気づかされてきます。
「しかし」、たとえ、今あるがままの私がそうであったとしても、「しかし」神様は、わたしたちの将来を約束して、こうおっしゃるのです。「あなたがたの国籍は天にある」。それは、あなたがた罪人のために、主キリストが血を流し、命を捨てたからだ。あなたのために、キリストが流した血潮が、あなたに天の故郷を用意した。キリストの献げた命が、わたしたちを、天の国籍に生きる者としてくださっているからです。 教会に集っているわたしたちの多くは、イエス・キリストを信じて洗礼を受け、この神の国の国民とされています。ただし、神の国に生きるのにどれだけふさわしくなったかは、まだわかりません。おそらく、ふさわしくなどないのでしょう。それでも天の父は、わたしたちが信じたキリストのゆえに、その犠牲のゆえに、わたしたちを「ふさわしい者」とみなしてくださっています。信仰によって義と認められているからです。キリストの功績のゆえに、この方を信じるわたしたちは、よしとみなされているのです。 「みなす」とか「みなされる」というとき、ほんとうはそうではない。中味はまだ十分備わっていない。そういう意味がこの言い方には含まれています。つまり、信仰によって義とされているとは、ほんとうなら神の国に生きる資格はないけれども、キリストのゆえに、特別にその資格を与えよう、ということです。 では、いつまで経ってもわたしは、ふさわしくないままで生きるほかないのでしょうか? いつまで経っても、罪人の卑しい体で生き続けるほかないのでしょうか?  いいえ、ちがいます。愛に満ちた天の父は、終わりの日に、わたしたちを、救い主イエス・キリストと同じ形に造り変えてくださるのです。神様の約束は確かです。 栄光に満ちた主イエス・キリストと同じ姿形に変えてくださる。そうは言っても、わたしがまったくの別人になるわけではありません。昔も今もこれからも、私は私です。この地上でも、神の国でも、私という存在は一つです。でもわたしを造りわたしに命を与えてくださった神は、このわたしを愛し、わたしを救い、わたしをキリストに似た者へと形作ってくださるのです。この約束は、キリストの再臨の日に、神ご自身の手によって成し遂げられます。
天地創造をふりかえってみましょう。そもそもわたしたち人間こそ、神の似姿に造られた存在でした。今わたしたちは、季節が移り変わるごとに、木々の緑や季節の花々など、自然の美しさや多くの物に心奪われます。それらの中に神の手の業を感じ、主をほめたたえます。けれども神様の目からみれば、本来、"あなたがたこそ、わたしの愛する子たち。わたしに似たもの、神の栄光を映し出す器だったのだ"。しかし、わたしたちは、神の似姿であることを快しとせず、むしろ神ご自身に成りかわろうとしました。これが罪の始まりです。ここから罪と死が入ってきて、わたしたち人類を今にいたるまで支配しています。
この滅びゆく運命からわたしたちを救おうと、父なる神が、イエス・キリストをお遣わしくださいました。キリストこそ神の像、神の栄光であられます。しかし、この栄光に満ちた方を、天の父は、わたしたち罪人の卑しい体を身にまとわせ、世に生まれさせました。主ご自身、わたしたち罪人の代表として、世の罪をすべて背負って、十字架に上られました。神の身分であられた方が、ご自分を無にして、わたしたち罪人と同じ姿になられたのです。罪を別にしては。だからこそ、この方を信じて生涯を送ったわたしたちを、天の父は、キリストに似たものへと、もう一度造り変えてくださいます。 天地創造のとき、ご自身の形に似せて人を造られた神が、救い主イエス・キリストの姿にかたどって、もう一度わたしたちを新しくしてくださいます。そのとき、わたしたちは正真正銘、イエス・キリストに似た神の子どもとして、天の故郷で永遠を生き始めるのです。
この永遠に至る道、イエス・キリストに似た者とされる道を、すでにわたしたちは歩み始めています。それは、キリストがわたしたちのために味わってくださった苦しみの道をたどることです。どんな人生にも苦しみがあります。苦しみのない人生などありません。しかしわたしたちにとって苦しみは、主キリストのために味わう、もうひとつの恵みでもあります。フィリピ3章10節にこうあります。「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずか」るなら、わたしたちはキリストの死の姿に「同じく」されます。キリストの死の姿と同じになるなら、キリストの復活の様にも等しくされるのです。 キリストに倣うとは、このように、終わりの日にむかって、刻一刻と、主キリストに似たものとされていく道です。このような人生を与えてくださった神に、感謝をささげましょう。
もちろん、その完成は、世の終わりの日、キリスト再臨の日を待たなければなりません。遠く感じられるでしょうか。でも主はすぐ近くにおられます。主の日は刻一刻と、近づいています。その日その時まで、一歩一歩、主にならう道を誠実に歩み続けていきたいのです。
言ってみればそれは、幼子が自分の足で立って歩き始めるのに似ています。だれもが、親として、子どもとして経験していることです。生まれてまもない幼子が、やがて自分の足で立って歩けるようになるのは、どうしてでしょう? それは、子どもの目の前に、親が立っているからです。やさしい愛の笑顔を愛する子どもに向けながら、親は言うのです。「あんよは上手、あんよは上手」。この親の声に励まされ、促されて、子どもは自分の足で立って歩き始めます。自分を受け入れ、愛してくれている親をめがけて、歩き出すのです。
あるいは年を重ねるにつれて、足腰がだんだんと弱ってきます。転んで足の骨を折ってしまったりすると、"もう一度自分の足で立って歩くことができるだろうか"。そう思います。それでも、息子・娘や孫たちに励まされて、もう一度歩き始めようと決心する。病院のお医者さんやスタッフに支えられて、リハビリに励む。 信仰も同じです。終わりの日、主が備えていてくださる完成へ向かって、上から召してくださる天の父が、恵みの顔をわたしたちに向けていてくださいます。名実ともにイエス・キリストに似た者となるべく、主イエス・キリストに向かって、今日もわたしたちは歩み続けます。聖霊の助けを全身に受けながら! われらを招く主の御顔をしっかりと見つめながら、キリストに倣う道、互いに愛し合う道を歩き始めるのです。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「信仰を抱いて」


(創世記25章7~11節、ヘブライ人への手紙11章13節)

 7:アブラハムの生涯は百七十五年でした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す土地に生きなさい。」アブラハムが、神の声を聞き、故郷を旅立ってから100年が過ぎたのです(創世記12章4節)。それがアブラハムの生涯の終わりです。75歳のアブラハムは、まさかこの後百年も生きるとは思ってもいません。アブラハムの175年の生涯は、息子のイサクより5年短く(イサクの生涯180年:創世記35章28)、ヤコブ(147年:創世記47章28)よりは22年、ヨセフ(110年:創世記50章26)より65年長かったのです。
 8:「彼は、息を引き取り、幸いな老境の中で、年月を全うし、先祖の列に加えられた。(直訳すれば=彼の民の中に集められた)」。アブラハムの人生は、十分に長くそして幸いな人生でした。アブラハムの死は、彼が神に祝福されて長寿を全うできたこと。彼の心は満たり、主によって魂の平和、主の平和と満足の内に最後の日を迎えたのです。アブラハムは、死によって虚しくなったのではない、神の民の民として生き、神の導きによって人生を全うした。だからアブラハムは、主によって先祖達の列に、先に信仰を全うして人生を歩んだ神の民の中に集められたのです。教会に属するわたしたも、主イエス・キリストによって神の民として集められ、守られてきました。主はわたしたちをご自分の元へ集めておられます。世の始めから世の終わりまで主はわたしたちを集め導き養ってくださいます。
 アブラハムの人生は、一言で言えば放浪の旅でした。生まれ故郷を旅立つ時、神はこういわれました。「わたしは、あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を、わたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。地上の民はあなたを通して祝福に入る」(創世記12章3~4)。 アブラハムが、カナン人の土地に着いてみると、そこにはアブラハムよりも先にそこで生活しているカナン人がいました。主は「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記12章7)といわれました。
カナン地方についた後、アブラハムは、さまざまな危機に直面しました。飢饉が来てカナンからエジプトに非難したこともあります(創世記12章10~)。部族の王達の紛争に巻き込まれる(創世記14章)こともありました。それでも、アブラハムは神への確かな確信に導かれていました。今はどうであろうと神の約束は必ず実現し、約束されたものを必ず与えてくださるという確信です。死に臨んでも彼らは約束の実現するであろう将来を希望をもち続けていました。その根拠は、イサクとヤコブが死に臨んで息子や孫達の祝福を祈ったことです。
アブラハムが所有したのはお墓だけです。妻のサラが亡くなって彼女の葬りためにマクペラの洞窟を買い取ったのです。サラの墓を手に入れるときもそういっています。「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです」(創世記23章4)。アブラハムは、約束の土地に居ながら、よそ者、旅人として生きることを受け入れたのです。  
 アブラハムにとって地上は、一時逗留するところであり、目指す目的地は別にあります。わたし達にとって、人生は旅であり、地上には、ゴールはありません。信仰とは、地上に安息の場所や居心地のよいところを見つけることではありません。信仰に生きることは、本当の故郷を探し求めることです。人はかつて自分が慣れ親しんできた場所、居心地のよいところが故郷だと思っています。エジプトを出てきたイスラエルは、荒れ野の旅路でエジプトを懐かしがりました。故郷とは、神が備えた場所です。その為には荒れ野を越えて行くのです。
  ヘブライ11章15節:出てきた場所を思っていたのなら、戻るによい機会が会ったかもしれません。アブラハムは、慣れ親しんだ故郷をそれはかつてアブラハムが父とその一族と一緒に生きていた場所、メソポタミアのことです。わたし達の時代になっても、若いときは故郷を離れるが、いつかは故郷にUターン。しかし、アブラハムにはそのような考えはありません。イサクの嫁探しの時に、それがよく現れています。アブラハムは、財産をすべて任せていた頼りにしていた僕がいました。アブラハムは、彼を自分の故郷に派遣します。イサクの花嫁を捜すために。僕は、心配がありました。アブラハムの故郷のメソポタミヤは当時最も文明の進んだ地域です。都会に住み慣れた花嫁候補の娘がカナンに行きたくないと言われたらどうしたらよいかと。それで、彼主人に尋ねました。もし花嫁候補が、カナンに行きたくないと言われたときは、イサクをメソポタミヤに行かせてもよいかと聞きました。するとアブラハムは「決して息子をあちらに行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから、息子に嫁を連れてくることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないというなら場、お前はわたしに対するこの誓いを解かれる。唯わたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない」(創世記24章6~8節)。自分も息子も、もとの場所に戻ることを考えない。ただ主に従わなければならないのである。
16節:わたし達の本当の故郷は地上ではありません。わたし達に天の故郷を用意するために主イエスは父のもとを離れて人となって来てくださいました。地上に生きる間、主イエスはだれにも理解されなかったよそ者だったのです。主が死なれな時は、弟子たちさえも主イエスの元を去っていきました。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(ペトロ一2章11)。わたしたちによ様々な人生の重みと重圧に耐えかねることもあります。それでも主はこういっています。「疲れた者、重荷を負う者はわたしのすべてに着なさい疲れた者はわたしの元に着なさいあなた方を休ませてあげよう。わたしのくびきは負いなす無をなぞった主イエスと共にならばいばらの道これが地上で寄留者として暮らすすべです。  

(説教者:堀地敦子牧師)

「まことの喜び」


(詩編8編2-10節、ルカによる福音書10章17-24節)

今朝は先週迎えました聖霊降臨の約束を受け、神の御力、キリスト教の神の真実を現した三位一体の恵みを受けて礼拝を捧げる時となっています。この出来事は古代教会において、父子霊の三位一体の神に対する祈りと応答が、キリスト教の揺るぎない教えとして置かれました。それは、「父と子と聖霊の御名によって」との祈りと、「父、御子、御霊のひとりの主よ」と頌栄讃美されている中にあって、このことは神学的に様々に問われ続け、現在でも異端信仰との闘いの中にあります。ここでは神学的な分析を細かく申しませんけれども、実際この三位一体の神に対して、否を突きつける姿勢に、キリスト教会は今なお御言葉の真実をもって闘い、聖書の教えを守り貫く使命を与えられています。今朝は教団の聖書日課により、ルカ福音書10章から御言葉に聴きます。
そこでまず唐突に問うようですけれども、「喜び」「幸せ」ということに何を思うでしょうか。今年の4月からのNHK連続テレビ小説いわゆる朝ドラですが、北海道の十勝地方が舞台になって物語が始まっています。私自身、高校生や大学生の頃から、限られたお金を握って、何度も北海道を旅行したことがあります。それは強行軍的なバックパッカーと呼ばれる冒険的な格安旅行で、日本国中巡ったことがあります。中でも北海道は私自身の旅行先のリピート率として上位にあるため、まるでふるさとのようにも感じることがあり、メディアでとり上げられる度に、訪れた頃の記憶が鮮明によみがえってきて、心が落ち着くこともあります。そのひとつの十勝地方に、かつての国鉄時代に一世風靡した広尾線というローカル線がありました。帯広から南の襟裳岬に向かう途中に位置している広尾という小さな町までの84kmを、1、2両の短い編成によるディーゼルカーが走っていて、観光シーズンともなると日本全国から大勢の人達が訪れたものでした。中には本州や九州からオートバイや自転車で訪れていた人もいました。それもある特定の区間だけが極端に脚光を浴びて、訪れる人が絶えない場所がありました。その区間は「愛国から幸福ゆき」と印刷された硬い紙のきっぷを記念として手にするためでした。帯広から11km南にあるこの場所に旅行者は心を躍らせ、夢を抱いて青森からの連絡船に揺られて北海道へ渡り、十勝を目指しました。朝ドラとは逆の道のりですが…。それぞれの家から丸一日か二日、中には一週間や1か月を経てようやく辿り着き、そして念願のきっぷを手にするのですが、大半の人が手にした「幸福ゆき」のきっぷは、いつの間にか文字が薄れ、果てには色褪せた硬い紙一枚だけが残るという、遠い過去の思い出が記憶の中でのみ、あの時の念願が叶って与えられた「幸福ゆき」という文字が、印刷の消えたきっぷの中に浮かんでくるのです。これはごく一例にすぎませんけれども、「幸福」という言葉からの受け止めは人それぞれでしょう。旅行そのものは、経験した人々を大きく成長させることは確かであり、どのような旅行形態であっても、その時を経験したこと、これから訪れることを思う事でも心がワクワクするとても魅力的なものです。私自身、旅行業務取扱管理者の立場からも、このことは声を大にして言えることですし、大切にしたいことです。そこで人生の一端を思う中では、「どうなれば幸せなのか」と自問自答したときに、明確にそれも納得のゆく答えが出てくる人は、どれだけいるのかとも思います。多くの場合は、それも一般的に考えてみると、今よりも、もしこうであれば…と何かしらの改善や向上心を抱くものと思われます。時が経って、思い通りにその願うものが与えられた時に、果たしてそれでよしと受け止められるのでしょうか。それで幸せと言えるのでしょうか。人間の思うところは、実に厄介なものです。たとえ思いが叶ったとしても、さらに次、その次と願いを止めどもなく募らせ、結局は自分の願いが叶わないと見切りをつけて、もうそんな夢は抱かない、幸せなんてという感情に押されてしまうことになるということが多く見られます。そこから得ることは、逆説的なことになるのですが、自分が思い願っていることとは、違うものに幸せがあるということに気づかされ、教えられるということです。なかなかそれに気づくには時間がかかります。そこには経験という大きな出来事が存在すること、避けられない現実があります。
今朝の箇所では、弟子達が一つの喜びの中にある時に、本当の喜び、本当の幸せがどこにあるかを主イエスが弟子達に語りました。それも興奮冷めやらぬ弟子たちを前にして、冷静沈着に語りました。主イエスは、以前に、まず12人の弟子たちを選び抜き、そして「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と告げられました。そしてそののちに、何度も主イエスが癒しの業や奇跡の出来事を起こされました。それから主は12人の弟子たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けにな」り、弟子たちはその力をもって、村から村へと巡り歩いて福音を告げ知らせて、病気をいやしました。そして次には、72人の弟子たちを遣わしました。この時に悪霊が追い出されるという事が、次々と起こりました。実際もし、この時代、この時、この場面に自分がいたとするならば、そもそも聖書に出てくるどんな場面でもそうですが、言いようもない境遇に駆られることでしょう。一言では説明できない複雑な思いになります。今まで縛られていた人が自由になり、暗い思いに塞がれていた人が明るくなり、神の御業が、それも目の前で次々と起こる。そこで弟子たちは喜んで帰って来て、主イエスに『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』と報告しました。自分の力ではなく、主イエスの力に端を発するということは、弟子たちも言わずと知っていたことでしょう。しかしこの時に、主イエスは弟子たちを褒めません。告げられた言葉は、『サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた』と言われました。これは非常に大切な真理を私達に教えて下さっています。それは、私達が正しく、それも謙虚に時には大胆に、伝道活動、神の御言葉を宣べ伝える時に、神の御業がなされて、悪の業が打ち砕かれていく。主の御業の勝利が、この地に起こる事をあらわしていると受け止められるからです。現実的には大きな課題のある中で宣教の業が置かれていることは、皆さんも重々実感していることと思われます。それほどまでに一筋縄ではいかない中にあって、それも人間の思いを超えた中で起こり、進められる神の御業にあって、悪魔の力を打ち壊していく力が裏打ちされているということを忘れないでいたいと思います。 
 聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えて今が与えられ、教会の働きに再び力が与えられ、主の御腕に押し出されながらあることを、今一度思い起こしたいとも思います。この一端は、福音宣教が絶え間なく行われ、それも霊的な闘いの中で宣教の業がなされていく中で、悪の業が打ち壊されていくということです。昨今、確かな根拠を持ちながらも、意見を述べるなど何か一言えば、同情や理解の眼差しよりも、理不尽な言葉や誹謗中傷の言葉が倍以上になって返ってくる現実、この厳しくも複雑な状況にある日本の実態を常に思いつつ、主にある救い、先ほどの「幸福」ということについて、真剣に考えなければならないとも思います。私達は、異教の国であるこの日本に、潜在的に存在する救われるに値する人々、また反対に、自分の力が頼りで、幸せは自分が創るものと思い、福音を必要と感じない人々もたくさんいる中にあります。そこで先んじて福音の光に導かれてある中にあっては、皆が真実な道に導かれて救われる人が起こされますようにと願いますし、より深く強く神の御業が成されてほしいと、連日悲しい出来事で溢れかえっている日本の現実を思うときに、焦りの思いも募ってしまいます。しかしそこは聖書に立ち返って、私達自身の力ではなく、主の力に依り頼みつつ、救いの御業がなされてゆくことを願うものです。その為に私達は祈りつつ御言葉に聴き、神の御力に依り頼み、より真剣に福音を受け止めて人々に伝えていく必要があります。そこに厳しくも激しい闘いがあっても祈りながら続けていく時、私達にはいつ実現するか判らずとも、神の計らいによって時が叶ったその時に、悪の業が滅ぼされていくのです。神の御業の確かさを信じているならば、私達は、宣教の業の中に神の御栄光を見るものとして、歩み続けたいと思います。
そこで20節を見ますと、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」とあります。目の前に見える現実的な人間の喜びを、主イエスは真っ向から釘を刺し、身を制します。そして『あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』と力強く告げられます。つまりは、一時的なもの、いずれ消え去っていく喜びに対して、主は弟子たちを通して私達にも、一時の喜び事に囚われずに、本当の祝福、喜びを求めなさいと言い続けておられます。私達が永遠の命の書に名前が書き記されている価値は、地上でのどんな奇跡や素晴らしい業より、比較できない価値のある事だというのです。多くの人々が「幸福」と思い描いているこの世の多くの出来事は、生活のよしあしの向きであって、それも目に見える奇跡や自分自身の名声や成功、出世などの名目と共に大きな喜びが湧き上がるものです。それは誰から見ても分かりやすいですし、幸福のしるしとして見えるものでしょう。しかし、天の御国に名前が記されている事をそれ以上に喜び、その価値の深さを受け止めなさいと教えられます。使徒パウロが書簡で記した有名な言葉にこうあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです(Ⅰテサ5:16-18)。」と。しかし実際この世にある以上、喜びも悲しみもあります。正直、いつも喜んでばかりはいられない現実でしょう。右の頬を打たれて、また生活費や仕事を奪われて、へらへらと笑っていられるほど楽観的な態度姿勢をもつことは難しいことでしょう。しかし主の御言葉を受けるとき、あなたの名前が天に記されており、あなたの御国はそこにあると宣言される故に喜べるというものです。私達の小さな、狭い人間の思いでは計り知り得ない祝福がそこにあるというのです。苛立つほどの現実が拭い去れない中にあっては、このことに葛藤を覚え、複雑な思いに駆られますけれども、私達は祈りつつ、主に捉えられていることを受け止めていく必要があります。
 次の21節を見ますと、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ。これは御心に適うことでした。」とあります。この時、主イエスは聖霊に満たされて喜びました。ここにある「幼子」は、自分の弱さを知る賢い者、心からへりくだる者という意味です。神の恵みはそういう人に現された。この事を、主イエスは褒め称えています。預言者イザヤの言葉も思い起こされます。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり。へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる(57:15)。」と。神は権力権威ある者と共にではなく、自らの罪に心砕かれへりくだった人、ここで言う「幼子」と共に住むと言われます。私達が神の恵みに与るに必要な事は、私達が神との和解を必要とする罪を自覚し、へりくだる者、砕かれた者になっていく。神は御前にへりくだる事がどんなに大切であるかを教えます。22節の御言葉がそのままです。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」と。地上に現われた主イエスは、社会から追いやられる姿をまとっておりました。そこで真の意味を知っていたのは、父なる神のみでした。また更には、父なる神についても、どんな方であるかわかる様にされたのは、主イエスが父なる神を知らせようと決めた者達、それはまことの信仰者にしか教えられなかったということです。つまりは、私達はイエス・キリストによって、イエス・キリストを通してへりくだり、自らの愚かさを認める故に、自らを神とせず、神を神として受け止められるように神に捉えられました。これは大きな祝福であり、何ものにも比べられないものです。
 私達がここから教えられることは、福音宣教が悪しき者を打ち壊す力を持つものであり、神の国の実現に向けて霊的な闘いを伴う働きであることです。使徒パウロが励ましたように、イエス・キリストの名によって悪魔の業に打ち勝っていくとの言葉に後押しされます。ここでヨハネの書簡を思います。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか(Iヨハ5:4-5)。」イエス・キリストを神の子と信じる者に、この勝利の力が与えられています。主を信じる一人ひとりが本気になって祈り、主に仕える人としてあるとき、悪の業に打ち勝ち、神の御業が豊かに現される希望に生かされます。あのクリスマスの夜に、羊飼い達が口を揃えて言った言葉が浮かびます。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか(2:15)」と。この世の権力に圧せられ、人々の自己中心的な思いや言動に押しつぶされそうになっていた暗い夜に、一つの救いの光が与えられたのです。そして今の私達にも、まことの救いの光、喜びなる主を信ずる信仰が与えられているならば、それぞれに主に満たされて、キリストを証しする者にならせていただきたいと思います。
ここから神の祝福が注がれていく事を受け止めて、更に主を慕い求める者、御子イエスが父なる神に従順であられたように、私達も主に倣う者として、神の真実なる道を求め続ける求道者としてあり続けたいとも思います。神はその志しある者に、確かな道を開いてくださいます。私達は、父なる神の恵みの偉大さを思い、主から与えられた救いの確かさを抱きつつ、御霊の導きの中で、共々に主の御名を掲げ、これからの日々も、福音の真理を宣べ伝えていく中に遣わされてまいりたいと心から願うものです。

(説教者:鮎川 健一)