2019年・2018年  礼拝説教

「祈りの家」


(ルカによる福音書19章45~48節)

イエスさまは、小さなロバに乗ってエルサレムに向かいました。
 45~46:エルサレム神殿が見えてきた時、イエスさまは都の為に泣いたのです(41節)。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこいにるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」(43~44)。主イエスは、エルサレムの崩壊の幻たから泣いたのです。実際、イエスが死んで40年後にエルサレムは崩壊します。そして、エルサレムの神殿の敷地に入ったときイエスさまは、神殿で商売をする人達を追い出し始めたのです。イエス様は怒っておられました。なぜ、イエスさまは、怒っておられたのでしょう。人々は、どんな商売をしていたのでしょうか。一つは、両替する人達がいました。神さまに献げる献金は、普段使っているローマの銀貨では通用しない。そこで神さまに献げるために両替商人がユダヤの銀貨に両替してくれたのです。そのかわり、人々からたくさんの手数料を取っていました。もう一つは牛や羊、ハトを売る人々です。エルサレム神殿でいけにえにするに相応しいものは決められていました。遠くから何日も掛けていけにえの羊や牛を遠くから連れてくるのは大変です。その人達の為に、羊やハトを売る者たちがいたのです。神殿で商売する人達は売り上げの一部を神殿に治めることになっていました。神殿にはたくさんのお金が入ってきます。たくさんの人が神殿に来ています。しかし、この礼拝を、神さまが喜ばれるでしょうか。お金があっても人が大勢いても真の礼拝になっていないとイエスさまは伝えていたのです。
イエスは、人々に聖書のことばを思い出させるように言われました。預言者イザヤとエレミヤ言葉です。「こう書いてある。わたしの家は祈りの家とよばれる。」そういわれているのに、そうなっていない。エレミヤも言っているのです。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿はお前たちの目には強盗の巣窟に見えるのか。そのとおり、わたしにもそう見える」(エレミヤ7章11節)。「あなたがたは、祈りの家を強盗の巣にしてしまった」。イエス様が起こったわけは、祭司達も人々も真実に神の言葉を聞いていなかったからです。神さまは、、モーセや預言者達を通じて人々に言ってきました。「わたしは主,あなたの神,あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。この世の神々は、わたしたちを奴隷化します。真の神は、あなたに真の自由を与えます。だから唯一のまことの神をだけを信じ敬いなさい。そして、自分を愛するように隣人を自分自身のように愛しなさいと。そうすれば、約束の地で何時までも生きることが出来ると神さまは言われてきました。しかし人々の信仰生活はそうなっていません。イスラエルは、口先では神さまを敬っていながら、心は神さまを離れていました。神を愛さなくても隣人を愛していたでしょうか。いいえ、神を愛さない人たちが隣人を愛することはできません。親をない子ども、夫をなくした人、外国から来た人、貧しい人、弱い立場の人達をいじめてはならないと、神様から言われてきたのに人々は全く無視していました。イスラエルはかつてエジプトで奴隷として虐待されてきたのです。いじめられる人の気持ちが分かるはずです。にも拘わらず、神の民は弱い人たちを差別し、虐げてきました。そのような実態の中で、罪の赦しを求める為に動物の犠牲を捧げても人々は心から悔い改めようとしません。かつて、ユダはバビロニアとの戦争に負けて、エルサレム神殿も都も破壊されてしまいました。大勢のユダヤ人が外国に捕虜として強制的に連れて行かれました。それをバビロン捕囚と言います。捕囚は、軍事力の差によるのなく人々が神さまを本当に礼拝していなかったからです。神の言葉祖ないがしろにしたからです。それでも神さまは、ユダヤの人々の罪を赦してもう一度神殿を建ててくださったのです。だからこそ、かつての罪を繰りかえしてはならないと、イエスは人々に訴えたのです。
その日から毎日、イエスさまは、神殿の境内で人々に神の言葉を教え始めました。人々は、イエスさまの話を夢中になって聞いていました。ただし、人々はイエスさまの言葉をまだ理解できてはいませんでした。それでも人々が、イエスさまの語る神の言葉を何時かは理解して、信じて真実に神を礼拝をするようになるために。イエスさまは、神の言葉を語り続けました。
一方、祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスさまを殺そうと企んでいました。しかし、彼らはすぐにイエス様に手を下そうとはしません。彼らは、時が来るのを待ちました。今はイエスさまの話を熱心に聴いていても、何時かみんなが心変わりしてイエス様を見捨てるだろうと思っていました。
実際、その通りになりました。あれほど夢中になってイエスさまの言葉を聞いていた人々が、たった一週間で心変わりしたのです。イエスさまが逮捕されて裁判になったとき民衆は皆でそろって、イエスを十字架につけろと叫んだのです。
ほんとうに人々は、口先では神さまを敬っていたのに、心は神さまから遠く離れていました。それは皆で一緒になってイエスさまを十字架につけたのです。わたしたちも、あの時のあの人達と同じ罪人です。わたしたちも一緒に、イエスさまを十字架につけたのです。
イエス様が十字架を担いで処刑の場所:ゴルゴダに向かう途上で、たくさんの女の人達が泣きながらついて来ました。イエスさまがその人たちに振り向いてこう言われました。「わたしのために泣くな。むしろ自分と子供達の為に泣け」(ルカ23章28)。イエスさまの為に泣かなくてもよい。何故なら、神さまは、わたしたちが十字架につけたイエスさまを死人の中から復活させます。むしろ自分たちの罪の為に、泣くべきです。イエスさまを十字架につけたほどわたしたちが罪深いことを知り、悲しみ泣きなさいと言われたのです。「神の御心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」るからです(コリント二7章10)。自分の罪を悲しみ嘆くことは、真実に神に立ち返る為には必要なのです。
自分の罪ゆえに泣けと言われたイエスさまこそ、神の約束されたメシア救い主です。かつて神殿で行われていた動物のいけにえは、もはや必要ありません。イエスさまが、わたしたちの罪が赦されるためのいけにえとなられたからです。ですから神は、いけにえではなく、わたしたちの罪の為に十字架に掛かったイエスさまを唯一の救いと信じることを求めています。そしてこのイエス様に従うことをわたしたちに求めておられます。 イエスさまは、言われました。「貧しい人々は幸いである。今飢えている人々は幸いである、今泣いている人々は幸いである。」(ルカ6章20~21節)。貧しさと飢えと涙この三つの言葉は、イエスさまの人生そのままです。イエスさまは、豊かだったのに貧しい大工の家に生まれました。イエス様は、人々の施しを頼って何も持たずに伝道しました。しばしば飢えていたこともあります。人生の終わりには、人々の罪が赦される為、十字架で涙を流されました。「涙を流しながら、祈りと願いを献げ、その畏れ敬う態度のゆえ聞き入れられました」(ヘブライ人への手紙5章7節)。主イエスさまは、人々の罪が赦される為に、ゲッセマネから十字架の死に至るまで、わたしたちの罪の赦しを求めて涙を流し祈ってくださいました。イエス様の涙の祈りによって、わたしたちは救われ、神の子と呼ばれています。わたしたちは、イエス様のように誰かのために、その人の罪が赦される泣いたことがありますか。もし誰かの救いの為に泣いているならその人は、キリストの跡をたどる人たちです。今わたしたちが誰かの救いのため涙して祈るなら幸いです。  

(説教者:堀地敦子牧師)

「わたしに学びなさい」


(エレミヤ書31章25、マタイによる福音書11章25~30)

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」(25節)。
主イエス・キリストは今、父なる神をほめたたえ、力の限りに神を賛美しています。心から感謝の祈りを、天の父にささげています。
これほどまでに主を喜ばせ、神に感謝させたこととは、いったい何だったのでしょう? それは、わたしたちのことです。わたしたちのことで主は喜び、心から神をほめたたえておられるのです。主の喜びの源は、ご自身の祈りの中にこのように表されています。 「天の父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者たちには隠して、幼子のような者にお示しになりました。父よ、これは御心に適っています」(25~26節)。
「これらのこと」とは、イエス・キリストこそ、神から遣わされたまことの救い主だ、ということです。ご自身、神の独り子であられ、わたしたちを罪から救うことのできるお方だということ。このことを人びとに広く告げ知らせるため、ご自身を証しするために、キリストは数々の御言葉を語り、特にこの地方では数多くの奇跡を行いました。ところが、それを見たほとんどの人たちは、キリストを信じるどころか、反発し背を向けました。ある者たちは「あれは悪霊の頭だ」と言い。またある人々は、キリストが貧しい人たち、徴税人らと一緒にいるのをみて、「あれは大食漢で大酒飲みだ。罪びとたちの仲間だ」(11章19)。そう言ってキリストをののしり、あざ笑ったのです。そのような人びとに、主キリストは、厳しい裁きの言葉でお応えになりました。「あなたたちは不幸だ。この奇跡がティルスやシドンの町で行われたならば、その町の人びとはとうの昔に…悔い改めたにちがいない」(21節)。「裁きの日には、彼らやソドムの方がはるかに軽い罰で済むだろう」(24節)。
この世でも知恵ある者、賢い人びとは、その多くがイエス・キリストにつまづいていきました。知恵や賢さが悪いわけではありません。自分は知恵ある者だ、世の中への見識が自分にはあり、多くの経験を自分は積んできた。そうした思いがいつのまにか、おごりを生んで、気がつくと、イエス・キリストを受け入れない。主が語り、主が行われた神の国の訪れを、自分を基準として、拒んでいくようになってしまったのです。 ところが、このような反発や反抗を受けたキリストは、もう一方の神の真実をしっかりと見つめ、神に感謝をささげられました。天の父が、神の国の秘密を、この世の知恵ある者、賢い人びとには隠して、むしろこの世の知恵や経験に乏しい人びとに、イエス・キリストを救い主としてお示しになったからです。
「幼子のような人々」に、神の国の奥義と、救いの道を、天の父自らがお示しになりました。やはり主イエスの、あの御言葉を思い出します。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10章14~16)。
この世の知恵に富んだ者も、人生や社会経験豊富な人も、それらを一度すべて脇において、ただひとすじに救い主イエス・キリストを信じ受け入れる。神の前で、まるで幼子のようになって、主キリストに自分自身を明け渡し、ゆだねていく。そのような者たちを、主イエス・キリストは心から喜び、神に感謝しておられます。もしわたしたちも、そのような者のひとりになることができたなら、まさに主キリストは、そのようなわたしたち自身のことで、神に心から感謝をささげてくださる。主の前に身を引くくし、心からへりくだるわたしたちを、主は本当に愛してくださっています。そして、そのような者にわたしたちがなれるのは、ただ神の恵みによるのです。 そのような者となるために、主キリストは、御言葉をわたしたちにくださいました。「わたしに学びなさい」(29節)です。
今年度の目標は、「キリストに倣うー互いに愛し合いなさい」です。「キリストに倣う」とは、主ご自身の言葉でいいかえれば、「わたしに学びなさい」ということでもあります。「学ぶ」といっても、いわゆる「学習しなさい」とか、聖書の知識を勉強しなさい、という意味ではありません。確かに聖書の言葉や、信仰の筋道を一つひとつ確かめ、深いところで理解することが大切です。聖書が神の言葉であり、救いの言葉が福音であるならば、その一つ一つを大切に、その意味をさらに学び、究めていく。そうする中で、今まで以上に、大きな恵みに気づかされていくことでしょう。
けれども、ここで主が命じておられるのは、いわゆる、学びのための学びではありません。「わたしに従ってきなさい」、「わたしの弟子になりなさい」との招きです。事実、主が使われた「学び」という言葉は、「弟子になる」という言葉から来ています。そして「弟子」という言葉は、キリストに「従う者」「従う者たち」という意味なのです。「わたしに学びなさい」とは、われらを罪から救い、滅びから贖い出してくださったお方。神の子どもとして新しく生きる命をお与えくださった、主イエス・キリストを心から信頼し、「従う」こと。従い続けることです。教会はキリストの招きに応じて、主に従う者たちの群れ、キリストの弟子たちの集いなのです。 弟子は、師に倣います。そしていつしか師に似てきます。たとえ師のようになることはできなくとも、弟子は師を映す鏡になります。弟子の姿を見て、人びとは、主をあがめ、主のもとに導かれます。もしわたしたちの姿が、人びとを主から遠ざけているのだとしたら、本当に申し訳ないことです。実際、わたしたちは主を証しするよりも、つまづきの方を多く与えてしまっているのかもしれません。しかし、ときに主の働きを妨げてしまっているかもしれないわたしたちを、主は決して責めておられません。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」 (マタイ10章24~25)。
むしろ、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。そう言って、キリストはすべての人を招いておられます。「だれでもわたしのもとに来なさい」。「だれでも」です。洗礼を受けてクリスチャンになっている人だけではありません。礼拝や祈祷会を決して休まない人だけを、主は招いているのでもありません。すべて疲れた者、重荷を負う者は皆、わたしのもとに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげよう。
「あなたを休ませてあげよう」。わたしたちを招く主の御声は、このあと、こう続きます。「わたしは柔和で謙遜な者だ」。だから「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」。「そうすればあなたがたは安らぎを得られる」。 考えてみると不思議です。「休ませてあげよう」と言いながら、「わたしの軛を背負え」とおっしゃるからです。人生に疲れ果て、もうこれ以上背負いきれない。そういってキリストのもとにやってきたのに、「わたしの軛を背負え」とはあんまりです。まるで詐欺みたいではないですか? 教会に来てまもない方が、ある時そうおっしゃいました。でも、その方はまもなく、キリストを信じて洗礼をお受けになりました。この言葉の本当の意味に気づいたからです。
「わたしの軛」、「軛(くびき)」とは何でしょう? 昔、ユダヤでは畑を耕すのに牛を使いました。今でいう耕運機、土を耕す農機具を牛にひかせたのです。2頭の牛に器具を引かせました。そのとき牛の頭と頭、首と首を木でつなげます。木の板の両端に、首が二つ収まるよう丸穴を開けて挟みます。二頭の首を、木にはめるから、「くびき(軛)」です。くびきで引かせると、2頭の足並みも揃って、十分な力を発揮します。そうでないと呼吸が圧迫されて、本来の力の半分も出ないそうです。
「わたしに学びなさい」と、キリストが招いておられます。それは一人一人が自分で努力して、それぞれの知恵や力に頼って頑張る、ことではありません。そうではなく、「わたしの軛」にあなたもつながりなさい。わたしに繋がれなさい。そう主は、おっしゃっているのです。
キリストのもとに来て、この方を信じて、それまで背負ってきた「重荷」を安心しておろすことができました。重荷をおろして、主のもとで、魂の安らぎ、真の平安を味わい、わたしたちは生きています。それは、キリストが、わたしたちと同じ人間となり、わたしたちの罪と繋がれてくださったからです。牛2頭の首をつなぐ、木の板でできた「くびき」の一方に「このわたし」が、もう一方に主キリストがつながれています。だから、主にある安らぎが、わたしたちのものとなっています。
これまで自分一人で背負ってきたと思ってきたあの重荷(罪)は、十字架の上ですでにキリストがわたしに代わり背負っていてくださいました。わたしたち一人一人は、キリストと同じくびきにつながれています。このことに気づかされた今、罪をはじめあらゆる重荷から、主によってすでに解放されている自分を見出します。主が仰せになったとおり、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」のです。背負っているもの、背負うべきものは、決して無くなりません。それぞれ人生の中で、背負っていかないものを抱えているのが人間です。にもかかわらず、わたしの荷は軽くされています。キリストと同じくびきにつながれているので、キリストが共に背負ってくださっているので、わたしの荷は軽くされます。
「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」とは、これほどの恵みです。キリストの弟子となるなら、「キリストのくびき」につながれたわたしの反対側、もう一方のくびきに、必ずイエス・キリストがおられます。わたしと一緒に、重荷を背負ってくださるのです。
わたしによく聞き従い、わたしの弟子となりなさい。「わたしに学びなさい」。キリストに倣って、「聖なる者となりなさい」。この招きに応えていく道も、実はまったく同じだということに気づかされます。救い主イエス・キリストと同じ「くびき」につながれること。片時も主から離れず、愛する主イエスと共に、信仰を歩み続ける。主の体である教会で、キリストの真の弟子にこれからしていただく。すべてはここにかかっています。聖霊の助けと導きを切に祈ります。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「キリストに倣う」


(レビ記11章44~45、エフェソの信徒への手紙5章1~2)

「キリストに倣う―互いに愛し合いなさい―」。
今年の教会目標を、神様がお与えくださいました。この一年わたしたちを導く神の言葉は、エフェソへの信徒への手紙5章1~2節です。
「あなたがたは神に愛されている子供」なのですから、「神に倣う者となりなさい」(1節)。なぜ神に倣うのでしょう。理由は、はっきりしています。それはわたしたちが、神によって愛された子供、神の子供だからです。
ここには二重の意味が込められています。一つには、わたしたちは神によって造られ、神の似姿に造られた、神の子どもです。子どもは親に似ています。必ず似ています。たとえ顔形がそれほどでなくても、内面とか性格が似ています。神の子供とは、神に似た存在です。神の栄光と素晴らしさを、自然体で表すことのできる、ただ一人の存在です。それが本来の人間、わたしたちでした。
けれども、神の似姿であるはずのわたしたちは、神に背き、罪に堕ちています。神の愛と恵みによって造られたわたしたちは、むしろ罪の中から生まれるようになってしまいました。神の栄光を映し出す器であったわたしたちには、罪のため、ひびが入っています。壊れてしまっています。天の父である神とは似ても似つかない者となってしまいました。神を愛することもできず、自分を愛することも、自分のように誰かを愛することもできません。愛することにおいて、本当に貧しく、不自由になってしまいました。 にもかかわらず、天の父は、このようになったわたしたちを、それでもなおも愛してくださっています。しかも、神の子どもとして、愛してくださっています。このことは5章1節のすぐ前、4章32節をみるとわかります。「互いに親切にし、憐みの心で接し」なさい。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように」、互いに「赦し合いなさい」。
続く5章2節にも、こうあります。「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして、わたしたちのために神にささげてくださったように」、「あなたがたも愛によって歩みなさい」。 「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように…」。「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を」十字架の上にささげてくださったように、互いに愛し合いなさい。
「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛され」ました(ヨハネ3章16)。わたしたちを救うため、わたしたちの罪を償ういけにえとして、キリストは、ご自分を神にささげてくださいました。これほどにまで、わたしたちは「神に愛されて」います。神に愛されて、キリストの十字架の死によって、罪から贖われました。キリストのゆえに、わたしたちはすでに神の子どもとされています。だから、あなたがたも互いに愛し合いなさい。キリストによって神がわたしたちを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。キリストがご自身を犠牲にして、わたしたちを救ってくださったように。あなたがたも互いに愛し合いなさい。神に愛された神の子どもなのだから、神に倣いなさい。神に倣うとはすなわち、イエス・キリストに倣うことです。互いに赦し合い愛し合う。これこそキリストによって罪赦された者たちにふさわしい。神に愛されてきた子供たちの生き方だからです。
教会とは、神に愛され、キリストのゆえに罪赦された者たちの集いです。しかも、自分たちの思いで集まって、われわれが教会を作ったのではありません。わたしたちを救おうと、神が、キリストのもとへわたしたちを集めてくださいました。神の手によって集められてできたのが、教会です。教会はわたしたちが作るものではありません。神様が教会を立て、わたしたちを呼び集めて、教会を教会としてくださいました。 神から遠く離れていたわたしたちを、もう一度、神の子どもとするために。預言者たちを送り、ついに救い主キリストを送り、さらに聖霊を注いで、神が集め守り、今もこれからも保ち続けてくださるところ、それが教会です。
旧約聖書によれば、教会とは神の民、神に集められた、聖なる者たちの群れです。 信仰深く、すでに清く、罪とは縁がなくなったから、聖なる者に選ばれたわけではありません。わたしたちは、どこまでも罪深く、弱く、迷います。キリストによって赦された今も、罪の誘惑にさらされ、負けているかもしれません。 このようなわたしたちであるにもかかわらず、どこまでも聖なる方であられる神様が、ご自身の群れとして、わたしたちをこの世から選び分かち、教会へ加えてくださいました。この一点で、わたしたちは聖なる者なのです。キリストを信じるという一点で、父なる神は、わたしたちを聖なる者とみなし、受け入れてくださいました。そして神は、罪を赦されたわたしたちが、名実共に「聖なる者」となるように心から望み、引き続きわたしたちを招いておられます。
いいかえるなら、キリストによって義とされたわたしたち、ふさわしくないのに神の子どもとされたわたしたちが、聖なる神の子どもにふさわしい中味をこれから回復させていただく。そのために歩む道、それが聖化の道であり、キリストに倣うということです。 キリストによって罪を赦されたわたしたちは、これから、神とキリストにふさわしい「聖なる者」へと、造りかえられていきます。神によって、造り変えていただかなければなりません。「キリストに倣う」、「神に倣う」とは、救われた者が、いよいよ神の愛を受け、キリストに似た者、神の似姿へと、本来の姿を取り戻していく道のことです。 この道は、ただ神の恵みによって、キリストを信じる信仰によってのみ始めることができます。神の恵みとキリストへの信頼を、絶えず抱いて歩み続けることが求められています。そのようにして初めて、世の終わりにわたしたちは聖なる者、神の子どもとしての姿を取り戻すことができます。
そもそも、罪に堕ち、神の似姿を失ったわたしたちに、神の子らしさを取り戻すことなどできるのでしょうか? わたしたち自身の力に頼るかぎり、それは無理です。どれだけ信仰が燃え上がったとしても、わたしの中には、自分を神の子とする力も、聖なる者とする信仰もありません。
ただ、神の恵みとイエス・キリストの愛、罪と死に打ち勝ったキリストだけが、わたしたちを救い、聖なる者へと造りかえることができます。それなら、わたしたちはただ、指をくわえて、待っていればよいのでしょうか? いいえ、そうではありません。本来わたしたちには手の届かなかったはずの救い、神の子どもの身分を、キリストが命を捨てて、勝ち取ってくださいました。ふさわしくないわたしたちのために、新しい命と神の子という身分を、無償で与えてくださいました。このキリストが、父なる神に倣え、わたしに倣え、と命じて、聖なる者となるよう、わたしたちを招いておられます。だから、イエス・キリストのこの招きに、感謝して応えていきたい。喜んで従っていきたいのです。 神の子らしさを取り戻す。それは、本来わたしたちにはできないことです。しかし神は聖霊を今もわたしたちに降り注いでくださっています。わたしたち人間にはできないことも、神様には可能です。事実、神は、十字架の上で死なれたキリストをよみがえらせ、復活の初穂となさいました。新しい命に生きる道を、神みずから、キリストにおいて開いてくださいました。神の愛の勝利、そして導きに信頼を寄せて、目の前に開かれた聖化の道を、皆で共に、歩み始めましょう。
ただ一筋に救い主イエス・キリストを見つめながら、「あらゆる重荷や罪をかなぐり捨てて」、…救いの道・聖化の道を、「忍耐強く走りぬこうではありませんか」(ヘブライ12章1~2より)。イエス・キリストの似姿が、わたしたち一人ひとりの内に、そして教会の中に、形づくられていきますように。聖霊の助けと導きを心から信じ、祈り求めつつ、この一年を歩みたいと願います。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「独り子である神」


(出エジプト記40章34~38、ヨハネによる福音書1章14~18)

 クリスマスの出来事は、ヨハネの福音書が告げ知らせているとおり、とても深淵で雄大なイメージです。まるで天地創造のときに匹敵するような宇宙的なスケールで、イエス・キリストのお生まれをこの福音書は描き出しています。イエス・キリストの到来によって、新しい天地創造が始まった。そういわれるゆえんです。
ただし、キリストの誕生と、かつての天地創造とで、ひとつだけ大きなちがいがあります。それは、イエス・キリストが「神の独り子」であられることです。18節によれば、主は「独り子なる神」として、天からこの世界においでになりました。では、「神の独り子」「独り子なる神」とは、いったい何を言おうとしているのでしょうか? 古代教会は、このお方をこのように信じ告白しました。「造られずに、神から生まれてきた方」と。 初めに世界が造られたとき、神は「光あれ」とおっしゃり、その通りになりました。「光あれ」と神が一言発すれば、すべては神のご意志のままに、瞬く間に光が生じこの世界を照らしたのです。そこからこの世界は始まりました。それから神はこの世界の、生きとし生けるものに「命」をお与えになりました。わたしたち人間も、神がくださった命によって、生き、生かされるものとなりました。
ただし、神から与えられたこの命を、わたしたち人間は自らの過ちで、失ってしまいました。アダムとエバが神に背いたため、神を信じ、神を愛することを止めてしまったからです。
失われたこの命をわたしたちに取り戻させるようと、今から二千年前、父なる神は、ご自身の独り子イエス・キリストを、世にお遣わしになりました。 父なる神の独り子とは、いったい、どのような存在なのでしょう? 1章14節にあるとおり、「言が肉となって、わたしたちの間に宿られ」ました。 この「言」は、天地創造の前から神と共にあり、神ご自身のことでした(1章1節)。この言によって、世界・宇宙のすべては造られています。この言の内に命があって、この命は人間を照らす光でもありました(1章4節)。 この光こそイエス・キリストです。世に来て、今もすべての人を照らしています(1章10)。この言そして光を信じる者には、神の子となる資格が、キリストのゆえに与えられるのです。
こういう言い方でヨハネは、まことの光として世にこられたキリストを、天地創造のとき造られたあの光以上の光だと証ししています。神からの、まことの光です。 父なる神は、天地創造のとき、ご自分の意志と言によって、すべてを成し遂げました。何も存在していないところから、あらゆるものを造り、命を与えました。わたしたち人間も、土のちりから造られ、神から命の息を吹き込まれて、初めて生きる者となりました(創世記2章7節)。
ところが福音書によれば、イエス・キリストは、神の言そのものであり、命そのもののお方です。罪におちて死んだわたしたちに、命を取り戻させる。このためにお生まれになった主キリストは、もう一度わたしたちを生かすことのできる「命の与え手」として、わたしたちのもとに来てくださいました。
命を与え、取り去ることができるのは、神様だけです。神様しかいません。キリストが「新しい命の与え手」としてこられたのなら、このお方こそ神だということになります。 同じことが、光にもいえます。「世を照らす光」として、キリストは世に来られました。「キリストこそ光だ」と告白するのは、神によって造られた光としでではありません。闇と混沌に支配されている世界に秩序を取り戻し、再び照らすことのできる光、すなわち「神からの光」、それがイエス・キリストなのです。ヨハネの福音書は、そのはじめから、このようなお方としてキリストを証ししています。
だからヨハネは、大胆にも、14節のようにキリストを証しし宣べ伝えることができました。「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。…それは父としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
これは、教会の最初からの信仰告白です。イエス・キリストとはわたしたちにとってどのようなお方なのか、(もちろん神にとってもこのようなお方です)、そのことを神から示され、そのままに証しした信仰の言葉なのです。この信仰に心から生きるとき、神の恵みと真理が、わたしたちの上に、あふれるばかり注がれている。イエス・キリストから注がれている。そのことに気づきます。
福音書の証しにもっと聞きましょう。この方のうちには、神の栄光が満ちあふれていました。今でもそうです。「父の独り子としての栄光」、すなわちただ一人の神から生まれた、ただ独りの御子。キリストこそ、キリストだけが正真正銘、永遠に神の子です。わたしたちは、この方を信じて、罪を赦され、神の養子にしていただいたのです。 永遠の昔から神の子であられるのはイエス・キリストただおひとりだけです。だからこそ、この方はすべての点で、神の栄光を現わすことができました。たとえば、キリストが神の言葉を語るとき、人々に悔い改めを求めるときも、そうです。悪霊を追い出し、人びとを病からいやしたとき。キリストが神の言葉を語り神の業を行うとき、そこにはいつも、神の栄光があらわされていました。
栄光と聞くと、人もうらやむ人生の成功とか、豊かさとか、そういったものを連想しがちです。人知を超えたものすごい力をふるって、わたしたちを救い、この世でも来るべき世でも、大きな繁栄をわれわれに与えてくださる。そういう栄光の道を約束してくださる。栄光と聞くと、ついそのようなものを期待します。

けれども、キリストが実際に現した栄光は、そうではありませんでした。福音書にあるように、キリストの中に現された栄光とは、「恵みと真理」とにあふれていたからです。 「恵みと真理」に満ちている。いいかえれば、神の慈しみと真実です。父と聖霊と同じ様に、キリストにはこれらが満ちあふれています。
神の慈しみとは、わたしたち罪びとを寄せつけないものではなく、われらをとことん憐み、身を低くし、わたしたちに寄り添ってくださる。それが神の慈しみです。この慈しみは、キリストの中にこそみられるものです。決して偽ることなく、神の愛と慈しみを、この方は、この方だけは決して裏切りません。「恵みと真理」「慈しみと真実」、つまり神の愛です。神の愛と真実は、イエス・キリストを通して、いまもわたしたちに豊かに注がれています。
キリストが現した栄光とは、そのような栄光です。この栄光は、キリストのご生涯みればわかります。讃美歌121番に、キリストの「恵みと真理」が歌い上げられています。
1 まぶねの中に産声あげ、木工(たくみ)の家に人となりて
貧しきうれい 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ
2 食するひまも 打ち忘れて しいたげられし 人をたずね
 友なきものの 友となりて 心くだきし この人を見よ
3 すべてのものを 与えし末 死のほかなにも報いられで
 十字架の上にあげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ
4 この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は現れたる
 この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ。
「この人こそ、人となりたる活ける神」。活ける神イエス・キリストにおいて、神の栄光は存分に現わされました。十字架の上に挙げられたキリストの中にこそ、神の栄光が、わたしたちに向けられた神の慈しみと憐みが、完全に示されています。わたしたち一人ひとりは皆、一人残らず、救い主イエス・キリストの「満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受け」ました。今もそしてこれからも、神の恵みは尽きることがありません。
「律法はモーセを通して現れ」ました。しかし今や、はるかにまさる恵みと真実がイエス・キリストを通して現れ、わたしたちをとらえて離しません。わたしたちはキリストの恵みと真実にすでにとらえられているのです。み言葉に導かれ、聖霊にうながされて、御子キリストを信じているからです。ただ漠然と信じているのではありません。この方こそ、神の独り子、いえ神ご自身のふところから出た、「独り子である神」と信じています。 ほんとうなら、キリストにも、主なる神にも近づくことさえできない、それがわたしたち罪びとです。モーセの時代、聖なる山に招かれても、神の御顔を恐れ、神の声を聞いたなら、決して生きてはいられない。罪を恐れ、神の顔を恐れ自らの滅びゆく様を思い描いていたイスラエル。そういうわたしたちのために、神は聖霊をもって臨み、目には見えない仕方で、臨在の幕屋に宿ってくださいました。そこから、モーセを通し、預言者たちを通して神は、わたしたちに語りかけてくださいました。
しかし今はちがいます。罪の恐れも、神様に決してふさわしくないわたしたちの間に、神は自ら宿ってくださっています。イエス・キリストという人となって、肉をとって、神の方からわたしたちに降ってこられました。
「肉をとって」、肉とは、わたしたち人間の弱さとはかなさを表しています。どこまでもかたくなで、神に聞き従おうとしない、わたしたちの愚かさをも表しています。しかし主は、わたしたちの反逆をどこまでも忍耐し、われわれの弱さに寄り添ってくださっています。われわれが味わう「はかなさ」をもっと深く味わい体験し、罪こそ犯しませんでしたが、それ以外のあらゆる面で、キリストはわたしたちと同じになってくださいました。だから、この方こそ、そう歌われるべきお方なのです。この方こそ、わたしたちを憐み、慈しみ、背負い続けてくださる。そのような神の愛が、キリストを通してなら、わたしにもわかる。目には見えない神の栄光、目には見えない慈しみと愛と真実は、いまキリストによってはっきりとわたしたちの目の前に開かれました。もしキリストが人となって来てくださならければ、この恵みは、決してわたしたちのものはならなかったでしょう。 しかし、キリストは来てくださいました。わたしたちのすぐ隣りに、わたしたちと一つになるため、わたしたちを神の愛でひとつとするために。キリストは今も、信じる群れ・わたしたち教会の間に宿っていてくださいます。
ですから、このキリストに心から信じ、従う者になりたいのです。キリストに倣うとは、これまで以上にこのお方に学び、キリストによく聞き従い、キリストの恵みの中を生きることです。世の終わりに、わたしたちは一人残らずイエス・キリストの似姿へと造り変えられます。愛するキリストにどこまでも似た、神の子どもとしていただけるのです。この希望と信仰、神の愛に生きてまいりましょう。  

(説教者:堀地正弘牧師) 

「神と人に愛された」


(サムエル記上3章19~21節、ルカによる福音書2章41~52節)

ここには、少年時代の主イエスの姿が出てきます。取れは過ぎ越しの祭りの時のことです。過ぎ越の祭りは、イスラエルの三大祭りの一つです。イスラエルが奴隷の国から救い出されたことを覚えます。「あなたの神主の過ぎ越祭を祝いなさい。…あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、…過ぎ越のいけにえを屠りなさい。七日間酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい」(申命記16章1~3)。過ぎ越の時は、多くの人々がエルサレムに集まって来ていました。各地に散らされているユダヤ人達、世界に散らされているユダヤの人々も過ぎ越の祭りの為に来ています。マリアとヨセフも、毎年過ぎ越の祭りのたびにエルサレムに上っていました。おそらく、家族や親族、同じナザレの村に住む人々と連れ立って一段となってエルサレムに旅をしました。イエスが12才になった年、マリアとヨセフはいつもの年と同じ様に皆で連れ立ってエルサレムに行きました。12歳のイエス様も一緒でした。12歳と言えば、ユダヤ人の男の子にとっては大事な年です。ユダヤの男の子達は、12才でユダヤ教の会堂の正式なメンバーとなります。まだ完全には大人とは認められません。両親と少年イエスは、共にエルサレムに行きます。さて祭りの期間が終わり両親は、ナザレに帰って行きます。ナザレから一緒に来た親族達や近所の人達たぶん一緒です。旅は大勢の方が安心ですから。
ところが、少年イエスさまは、まだエルサレムに残っています。でも、両親はまだイエス様が一緒にいないのに気がつきませんでした。旅の一行は大勢ですか、子供が両親以外の大人や友達の家族達と一緒に旅することも珍しくありません。それで、マリアもヨセフも一行の中にいると思い込んだのです。それで一日分の道のりをいってしまったのです。 ようやくマリアとヨセフは、イエス様が一緒にいないことに気がつきました。親類や知人の中にイエス様がいるのではと思い捜し歩きました。それでも、イエス様どこにもおられません。マリアとヨセフは、イエス様を捜しながらエルサレムに引き返して行きました。   
三日後、イエスは、神殿の境内におられました。イエス様は、学者達の真ん中にすわっておられました。少年イエスは、学者たちの中にいて話を聞いたり、質問しておられました。学者達は、少年のイエスを自分たちの仲間であるかの様に受け入れていたのです。イエス様の質問や受け答えを聞いていた人々はイエス様の賢さに驚き感心しました。  48節「両親は、イエスを見て驚き、」母マリアがこう言ったのです。「なぜこんなことをしてくれたのです。あなたのお父さんもそしてわたしも心配してさがしたのです」。あなたを心配して親戚や知り合いの中を捜した。それを何とも思わないのか。賢いイエス様を、マリアとヨセフは素直に喜べない。両親は、イエス様には、学者達と議論などしないで普通の大工の子のようにして欲しかったのかもしれません。母マリアはそれをストレートに口に出しました。そこに家族らしさが見えます。仲の良い家族だって、腹立つこともある。口げんかもします。それが普通の家族です。
しかし、父ヨセフは何も言いません。イエスにもマリアにも。12年前、マリアが身ごもった。聖霊によって身ごもったと。ヨセフは夢の中で、天使からそれを聞きました。天使のお告げを信じてマリアを妻に迎えました。あれから12年、困難を乗り越えて幸せなヨセフとマリアと家族をわたし達は想像します。しかし、イエス様が見つかっても黙っているヨセフを見ると、それほど簡単ではないと聖書は教えてくれます。
そのような中、イエス様は両親にさらにこう言われました。「なぜ、わたしを捜したのですか」。イエス様のこの一言を、マリアとヨセフはどう聞いたのでしょう。なぜイエス様は、自分を心配してくれた親にこんな風にいわれたのでしょう。
49:「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」ヨセフにとっては、大変な一言だったかもしれません。あなたは、父ではない。わたしの父は天の父である、といわれたからです。イエス様がまだ12歳で、幼すぎて両親の気持ちを理解しなかったからこんなことをいわれたでしょうか。
決してそうではありません。やがて成長したイエス様はこう言われました。「わたしよりも、父や母を愛する者、わたしよりも息子や娘を愛する者はわたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担って、わたしに従わない者はわたしにふさわしくない」(マタイ10章37~38,ルカ14章26~27)。12歳のイエス様は既にご存じでした。主イエスは一貫して地上の家族関係ではなく、天の父の御心を第一とされたのです。たとえ自分の命を失っても神のみ心を受け入れる、それが御子イエスが貫かれた道なのです。
わたし達にとってそれは、受け入れがたい道です。自分を捨ててまで神の御心を受け入れることは何と険しい道でしょう。少年イエスのいわれることを両親は理解できませんでした。しかし、マリアはこれらのことを全て心に納めていました。わたし達が主のみ心を受け入れて生きるのは困難が伴います。マリアにとっては、心を刺し貫かれる苦しみを味わうものとなります(2章35)。それでも、12年前に天使の言葉を受け入れたマリアは、最後まで神の御心を受け入れたのです。神の心を受け止めるマリアのその姿は、オリーブ山で祈り神の御心を受け入れて十字架につけられた主イエスの姿を思わせます。神は、このイエスを死人の中よりよみがえらせたのです。「どうしてわたしを捜したのですか」。少年時代のイエスの言葉は、復活の朝を思わせます。主が十字架につけられた後の週の初めの日、婦人達は墓へ行きました。主イエスに会いに。ところが墓は空で天使が待っていました。「なぜ生きておられる方を死んだ者の中に捜すのか」と。主は、わたし達を罪から救うため十字架に死なれました。神が備えた道から迷いでた、主イエスは、わたしたちが捜し求めるところや、わたしたちがここに居て欲しいと願うところにはおられません。主イエスがおられるのは、父である神が備えられた場所です。それは、十字架の上であり、父である神の右の座です。何故なら、主が地上に来られたのは、罪の中に迷い出たわたし達を捜し、死から命へと移すためです。そのために、主は死人の中より復活し、今も生きて働いておられます。それは、罪の中で死んでいたわたし達を捜し出し、永遠の救いに導くためです。わたし達には、神の子どもと呼ばれる資格などありません。主キリストの憐れみと執り成しによって、罪人であったわたしたちに神の子供として生きる道が備えられたのです。主イエスが備えてくださった道を共に歩む人々が増し加えられますように。

(説教者 堀地敦子)

「神から生まれた者たち」


(マラキ書3章16~17節、ヨハネによる福音書1章10~14節)

 クリスマスおめでとうございます。先週、クリスマス伝道礼拝をささげました。教会暦では今日が降誕節第1主日クリスマス礼拝です。2018年をしめくくるにあたり、世界中の教会が御子のご降誕を祝い、主を賛美・礼拝しています。
救い主のご降誕を、ヨハネの福音書はきわめて特別な仕方で語り始めます。「初めに言があった…言は神であった」。この書き出しは、旧約聖書・創世記1章の天地創造を思い起こさせます。「初めに、神は天と地を創造された。…神は言われた。『光あれ』。こうして光があった」(創世記1章1、3節)。 そして福音書には、こうあります。「その光は、まことの光で、世に来て、すべての人を照らすのである」(ヨハネ1章9節)。ヨハネの福音書は、キリストの誕生を、「まことの光が世に来た」と証ししています。つまり、キリストのご降誕は、あの天地創造に匹敵する出来事だ、と言っているのです。事実、イエス・キリストによって、新しい天地創造が始められました。この世界とわたしたち人類は、「まことの光」キリストに照らし出されて、永遠の父である神のもとに、立ち帰る道を歩み始めたのです。それは、「神の子となる」。もう一度神から生まれて、今度こそ、ほんとうに神の子ども、神の子たちとなるためです。
そこで福音書は、こう告げています。11節:「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。ただし、12節:「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。 二千年前、救い主が来られて、すでに十字架の上で、わたしたちの救いを実現されました。それなら、どんな人も、すでにもう救われているのでしょうか? いいえ、たしかにキリストは世に来て、救いの業を実現されました。旧約以来、神の約束を果たしてくださいました。けれども、わたしたちが救われるためには、神が遣わした独り子イエス・キリストを信じることが必要なのです。
同じ福音書3章17節以下に、こうあります。「神が御子を世に遣わされたのは…御子によって世が救われるためである」。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(18節)。さらに、「光が世に来たのに、…(人々は)その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」(19~20節)。
1章11節で「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあるのは、まさにこのような事態を指しています。たしかに救い主はわたしたちの世界に来てくださいました。しかし、一人ひとりが、この方を受け入れるか、それとも受け入れないのか。わたしたちの運命や将来は、それによって大きく左右され、分かれていくのです。 「言は自分の民のところへ来た…」。ここでいう「言」とは、天地創造の前からおられる神、昔も今もこれからも、永遠に変わることなく生きておられる「父なる神」のことをいっています。さらには、天の父から遣わされた「独り子なる神イエス・キリスト」のことでもあります。このことは、1章14節、18節にはっきり述べられています。
「自分の民」とは、わたしたち人類のことです。ユダヤの民の多くは、イエスを神の独り子とは信じず、十字架に追いやりました。けれども、キリストを拒んで十字架で殺したのは、イスラエルの民だけの罪ではありません。神に選ばれたイスラエル以外の、あらゆる民族も、神が与えてくださった救い主を拒絶し、追い出したのです。それはキリストが生まれたときからそうでした。ベツレヘムには、マリアとヨセフ、そして主キリストをお泊めする部屋も人びともいません。せっかく来られた救い主を心から信じ、喜んで迎えた者は、ほんのひと握りの貧しい羊飼いたち、外国から来た博士たちだけでした。キリストを十字架のつけたのは、ユダヤの人びとと、当時の世界を表すローマの人びとの両方でした。
神は、われわれ人類のために、長い時をかけて、救い主を送るために歴史を導いてこられました。特に神の民イスラエルには、救い主を遣わすとの約束が、ことあるごとに、預言者たちを通して語られてきました。名もない多くの人々は、この神様の約束が実現されるのを、心から待ち望んできました。 しかし実際にキリストが来られたあとは、どうだったでしょう? 神の国を主が宣べ伝えても、あれは大工の息子、マリアの子ではないか! 神の力によって悪霊を追い出しても、「やつは悪霊のかしらベルゼブルの力を使っている」。そう言って、だれも信じようとしません。人びとは、「村から出て行ってください」と、救い主を追い出すこともめずらしくありません。
弟子もそうです。「わたしは十字架にかかり、死んで、三日目によみがえる」。キリストがそうおっしゃっても、弟子たちにはなんのことかまったくわかりません。自分たちを罪から救うために、あらゆる苦しみを背負っていかれるのに、「そんなことがあってはなりません」と、キリストに向かってダメ出しをする。説教をする。そういう弟子たちでした。最後の晩餐のあと、キリストが捕らえられるときに、主を見捨てて逃げ出してしまう。弟子たちの理解のなさ、信仰のなさは、一級品です。実にわたしたちもまた、弟子たちとまったく同じことをしているのです。気づくと気づかずとにかかわらずです。 キリストを信じて洗礼を授かっているというのに、わたしたちのこの姿は、いったい何なのでしょうか? キリストが、「神の子となる資格を与え」てくださらなかったら、何年経っても、何十年何百年信仰生活を続けても、けっしてわたしたちは「神の子」になどなれなかったはずです。そのようなわたしたちのために、キリストは現れてくださったのです。しかも、「恵み」と「真理」に満ちあふれるお方として。
キリストは、神の「恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。神の独り子だけが、「憐みと真実」にあふれていました。わたしたち自身をふりかえれば、神への愛や真実が、いったいどれだけあるというのでしょう? それらは皆エデンの園に置いてきてしまったかのようです。
天地創造の出来事を思い出してください。本来、わたしたち人間は、「神に似せて」造られました。神の栄光を現わす、栄えある存在でした。恵みと真実あふれる神に似た者たち、神の子どもたちとして生み出され、この世界を託された者たちでした。全能の神は、慈しみと恵みと真実をもって、わたしたちの心と体を形づくり、魂を吹き込んでくださったのです。本来なら、わたしたちこそ、神から生まれた者、神の子どもたち、だったはずです。
ところが、われわれの祖先、アダムとエバが取り返しのつかない過ちを犯しました。神の愛と恵みを裏切り、神の子の身分を自ら捨てて、悪魔の軍門にくだりました。神の愛の言葉・約束を信じないで、蛇の誘惑の言葉を信じ受け入れてしまったためです。魂を悪魔に売り渡したも同じです。
この日以来、わたしたちの心と体は、ほんらい神が望んだ「神の子ども」とは似ても似つかないものとなりました。すべてを神に感謝し、神を喜び、すべてのよいものを神にのみ期待する、ことができなくなりました。神の恵みと真実を映し出すはずのわたしたちは、暗闇の中、罪と後悔の中を生きるほかなくなりました。
もう、かつてのわたしたちではない。ほんらいの自分を失ってしまった。悲しい限りです。アダムとエバの罪は、わたしたち自身を、これ以上ないほど、悲しくみじめな存在へとおとしめました。しかしこのことを、もっと悲しんでおられる方がいます。わたしたちを失って、わたしたち以上に悲しんでおられる方、イエス・キリストの父なる神様です。 だから神は決意なさいました。たとえどんな犠牲を払ってでも、失われた子どもたちを取り戻す。この決意を神様は決して変えません。そのため神は、独り子イエス・キリストを遣わしました。わたしたちを神の子どもとするため、罪と悪から取り戻すために。このためだけに神は、偽りと罪の世界、この歴史をこれまで忍耐し導いてこられました。わたしたちの救いのために、神は、全身全霊をかけておられます。 だから、なのです。わたしたちが今ここにいることができるのは、神が全身全霊をかけて、この世界を守り、救い主キリストを与えたから。キリストのもとへ、わたしたちを導きつづけてくださっているからです。わたしたちの方で、この方を一生懸命信じたからではありません。わたしたちも一生懸命信じてきたでしょう。信じようとしてきました。でも、それではだめなのです。なぜなら、あの弟子たちとわたしたちはどこも変わらないからです。
主が十字架に赴く前夜、彼らは約束しました。「イエス様、死んでも、あなたから離れません。ご一緒に死ぬことになっても、お従いします。」 真剣に真実に、弟子たちは誓いました。しかし、キリストに従い通せた者は一人もいません。神の子に従い通す信仰も真実も、わたしたちの中にはないからです。自分の力、信じる私の力などでは、罪の力に打ち勝つことはできません。神の子どもとなる資格など、わたしたちにはないのです。 そのわたしたちのために、キリストが、神の子となる「資格」となってくださいました。キリストはすべてに打ち勝っています。弟子たちの裏切りも、イスラエルとローマの人びとの不信仰や拒絶も、すべてその身に背負って、十字架の上で償ってくださいました。わたしたちの罪と不信仰を、神の前で滅ぼしてくださいました。この方だけが、わたしたちを、新しく神の子とすることができます。
キリストこそ神の意志に忠実で、キリストだけが恵みと真実にあふれておられます。キリストこそ、正真正銘、永遠の神の子です。神の独り子イエス・キリストによって、わたしたちは、真実に神の子どもとされていくのです。
教会で、キリストから洗礼を受けたそのときから、わたしたちは、罪をあがなわれ、神の子どもとされています。洗礼の水は、キリストの尊い血潮がわたしたちの上に注がれたことを表しています。わたしたちが生まれたのは、もはや肉によるのでも、血によるのでもありません。まして人の欲望によって生み出されたのではない。人となられた神、肉となられたキリストの尊い血潮によって、わたしたちは新しく生み出された者たちです。だから、わたしたちはすでに神の子なのです。キリストによって罪をゆるされ、残る罪も、この方によって清められていく。この約束を、これからも信じていきます。キリストによって、わたしたちはすでに神の子。だからこそ、神の家・教会で、神の国の食卓に招かれ、天の父との永遠の交わりを楽しむことができます。
歴史の終わりに、キリストが再び来られます。必ずきてくださいます。その日、キリストによって、新しい天と地がもたらされます。新しい天地創造の御業は、キリストによってすでに始まっています。キリストの教会を通して、わたしたちの間で、今もこの御業は続けられています。救いを受けたわたしたちは、キリストによる新しい天地創造の中を歩んでいます。その中で、生かされています。
イエス・キリストこそ、「恵みであり真理」であり、神の栄光を現しています。わたしの、わたしたちにとって、ただひとりの救い主イエス・キリスト。この方を信じ受け入れていくことによって、だれもが「神の子」という本来の身分を取り戻すことができるのです。
新しい天地創造は、世の終わり、キリストによって必ず完成されます。まもなく完成される、神の国を待ち望みます。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「神様からの贈り物」


(ルカによる福音書2章8~14)

夜空をふと見上げると、ひときわ輝く星たちがありました。野原では、羊飼いたちが、夜通し、羊の群れの世話をしています。そこに突然、天使が現れ、羊飼いたちに驚くべきことを知らせます。「今日あなたがたのために救い主がお生まれになった!」。羊飼いたちがびっくりしていると、さらにたくさんの天使たちがかけつけ、大合唱が始まりました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人びとにあるように」。
天使の言葉に押し出されて、羊飼いたちが訪ねていくと、確かに告げられたとおりでした。「飼い葉桶の中に寝かされた乳飲み子」が、両親とともにいるのを、羊飼いたちは見つけました。救い主イエス・キリストの誕生です。
こういう様子を思い浮かべると、なんとものどかな、美しい、メルヘンチックな光景を想像します。年の瀬も押し迫った今、日常の忙しさ・さわがしさから逃れて、しずかに過ごすのにこれ以上の場面はないかもしれません。
けれども聖書は告げています。救い主の誕生は、日常の真ん中で起こりました。日常の疲れをいやそうと訪れるリゾート地や、イルミネーションあふれる観光地で、救い主はお生まれになりませんでした。むしろ、羊飼いが夜、寝る間もゆとりもなく、毎日の仕事に追われている。こうした日常の真ん中に、イエス・キリストはやって来られたのです。 二千年前ユダヤには、たくさんの羊飼いがいました。羊の世話だけではありません。羊から、たくさんのウール(羊毛)が取れました。冬の日にわたしたちを寒さから守る服が、ここから作られます。羊のミルクは、毎日の食卓に欠かせません。羊の肉を使った料理は、ごちそうです。羊から、飲んで、食べて、着て、子どもたちは大きくなり、大人たちも元気を取り戻します。皆が羊に養われていたのです。もし羊飼いがいなかったら、人びとの生活はとても困ったことになるでしょう。
それでも羊飼いが、ありがたがられたり、尊敬されることは、まずありませんでした。だれにでもできる当たり前の仕事、能力ある者がする難しい仕事とはちがう。そう思われていました。羊飼いの仕事は、力がいりますし、きつい仕事です。いつも羊と一緒に寝起きするので、動物のにおいが服や体にしみつきます。これほどなくてはならない仕事はないのに、だれからも感謝されず、むしろ軽蔑されるほうが多かったのです。お金持ちの子どもが、「僕、羊飼いになりたい」といえば、親に叱られました。身分が低く、貧しい人びとが、羊飼いになるのでした。
そのような人たちに、真っ先に、神様は、救い主誕生の知らせを伝えました。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。今日ダビデの町で、「あなたがたのために救い主がおまれになった。この方こそ主メシアである」。
「恐れるな」と神は告げられました。羊飼いたちだけでなく、わたしたちの日常は、「恐れ」や「不安」に囲まれています。危険と背中合わせの日常を過ごしています。それなりに幸せな、人並みの暮らしをなんとか守ってきました。でも一歩まちがえば、いま手にしているものを失うかもしれない。いつなんどきそれが起こるか、だれにもわからないのです。さまざまな「恐れ」に囲まれているわたしたちに、神様は今日、新しい希望を見せてくださっています。イエス・キリストです。キリストこそ、世を照らす光、わたしたちを救いに導く、希望そのものです。
恐れずに、イエス・キリストを迎えなさい。そうすれば、あなたも、家族も、大きな喜びを味わうことができる。この喜びは、神様からのものです。だれも奪い取ることはできません。
つぎに天使は、羊飼いたちにこう言いました。「見よ、あなたがたは、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。これこそ、あなたがたへのしるしである」。駆けつけてみると、天使の言葉どおり、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」を羊飼いたちは見つけました。
「飼い葉桶」とは、牛や馬にエサを与えるのに使う入れ物です。桶とありますが、ユダヤでは、石をくりぬいて作った鍋のような形をしていました。 神の子イエスは、救い主として世に来られたとき、暖かいお城や豪華な宮殿を住み家に選びませんでした。硬くて、冷たくて、きれいとはいえない、石でできた「飼い葉桶」の中に身を横たえました。その場所を、最初のすみかとされました。冬の夜空の下、夜も寝ずに仕事をしている羊飼いたちのすぐそばに来るためです。不安や恐れと戦い、日々を送っているわたしたちのすぐ近く、ど真ん中に、救い主は来てくださいました。すでに来ておられます。クリスマスの喜び、そして恵みがここにあります。
この後、大人になったキリストは、33歳の頃、十字架につけられ無実の罪で死んでいきます。教会の屋根の上や礼拝堂に、十字架がつけられているのは、このことのしるしです。
なぜキリストは、十字架につけられたのでしょうか? そして、多くの犯罪人と共に葬られたのでしょうか? それは、わたしたち人間のだれもが抱える「罪」を、背負わされたからです。弱い人びとを助け慰め、神の意志に最後まで忠実に、神を愛し、われわれ人類をとことん愛し抜いていかれた神の子。罪のないキリストが、わたしたちの代わりに十字架で罰を受けました。それによって神は、わたしたちの罪を償われたのです。このことを信じ、キリストを受け入れるなら、だれもが神にゆるされます。罪をゆるされ、神の子どもとされ、新しく命を生き始めることができます。この道を開くため、キリストはお生まれになりました。
石で造られたあの「飼い葉桶」は、十字架で死んでいくキリストが、やがて葬られる「お墓」にそっくりです。当時のユダヤでは、自然にできた洞窟や、岩山に横穴を掘った場所を墓としていました。キリストが寝かされた「飼い葉桶」は、キリストのお墓のミニチュアです。お生まれになったそのときから、キリストは、わたしたちを罪から救うため、十字架にかかる定めにあったのです。この定めをキリストは、神の御心として受け入れていかれました。わたしたち人類が二千年間、キリストのお生まれを感謝し続けているのも、このためです。
こうしてキリストは、神とわたしたちの間の「平和」となられました。神との平和、終わることのない永遠の平和を、キリストが、十字架の上に打ち立てたのです。 二千年前、キリストが生まれた当時、「平和」といえば、「ローマの平和」を人びとは思い浮かべたといいます。「世界の道はローマに通ず」と言われるように、今のヨーロッパ全体、オリエント地方や北アフリカなど、当時知られていた世界のほぼ全部がローマ帝国の支配の下にありました。しかもキリスト生誕のときには、ローマ皇帝アウグストゥスによって、世界の平和が実現された、といわれていました。ただしこの平和は、人間の権力や武力、圧倒的な経済力によるものです。あとから振り返れば、決して永遠に続くものではありません。立ててはくずれていくものにすぎませんでした。
ところが、神の子として生まれた救い主は、まったく対照的です。無力な姿で、人類の歴史の中にやって来られました。生まれたばかりの赤ん坊という無力な姿で、都会ではなく田舎の村で、しかも飼い葉桶の中に寝かされました。貧しい羊飼いたちのところに宿りました。道端で生まれたも同然です。しかし、ユダヤの道端で生まれたこの幼子こそ、わたしたち人類が待ち望んだ救い主、王の中の王様です。これまでだれも見たことも聞いたこともない、新しい王が誕生したのです。この王は、ご自分の身を低くされ、恐れと不安にみちたわたしたちに寄り添うように、この世界にやって来られました。王宮や神殿を捨てて、わたしたちと共に生きる道を選ばれました。いままでだれも経験したことのない新しい平和を、未来を、ベツレヘムで生まれた幼な子が造り出していくのです。さまざまな権力を握った一握りの人間によってではなく、神の前で、わたしたちの間で、だれよりも低くなられたキリスト。このキリストによって、世界とわたしたちの救いは約束されています。
この希望は、世の中で、身や心を低くされた、へりくだった人びとによって受け入れられ、信じられていきました。
われわれ人間は、これまで、さまざまな恐れ、争い、破壊状態を作り出してきました。しかも、今も、その中にとどまろうとしています。そのわたしたちを、しかし神は決して忘れず、見放しません。二千年前イエス・キリストを送ってくださったのが、その証拠です。キリストによって、神がわたしたちをひろい上げ、救い出してくださいます。キリストと共にあるかぎり、喜びと平和は、常にわたしたちのそばにあります。
キリストこそ、神様がわたしたち人類に与えてくださった、ただ一つの希望、救いです。神様からの、大きな大きな贈り物です。この贈り物をしっかり受け止めて、天の神、キリストと共に、新しい未来に向かって、船出をしようではありませんか。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「平和の道へ導く」


(サムエル記上2章1~10節、ルカによる福音書1章67~80節)

 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストよりもおよそ半年程前に生まれました。彼の誕生の次第もまた奇跡でした。
ヘロデ王の時代に、祭司ザカリヤと妻エリザベトという人がいました。二人とも神さまの前に正しい人でした。ただ二人には、子供がなく既に年を取っていました。ザカリアは祭司の任務の為、一人で聖所入り香をたいていました。その時、突然目の前に天使が現れて言いました。「ザカリア、もうすぐあなたと妻エリザベトに男の子が生まれます。その子の名前をヨハネと名付けなさい」。しかしザカリアは、天使のいうことが信じられません。自分も妻も非常に年を取っているのに、いまさら子供が生まれるはずないと思ったのです。天使は、ザカリアに言いました。あなたは、時が来れば必ず成就する主の言葉を信じませんでした。だから、今からあなたは口が利けなくなります。そして、何もかも天使の語ったとおりになりました。時が満ちて、ザカリアとエリザベト夫妻に初めての男の子が生まれました。この知らせに、近所の人も、親族も大喜びでお祝いに来ました。ユダヤの男の子は、生まれて八日目に割礼を受け、その日に名前をつけられてお披露目されます。集まった人々は、子供の名前を父の名を取ってザカリアにしようと言いました。男の子の名は、父親か、祖父、あるいは近しい親族の名をとってつけるのが当時のユダヤの習わしでした。日本でも、親の名前から一文字取って名を付けることがあります。しかし、エリザベトは言いました。「この子の名前は、ヨハネとしなければなりません」。それは、主の天使が告げた名前だからです。天使のお告げを知らない人々は、エリザベトに反対しました。「あなたの親類には、そう言う名の付いた人はいない」。ユダヤのしきたりに反する、というのです。人々はザカリアにと尋ねました。「この子に何と名付けたいか」。ザカリアは、板にこう書きました。「この子の名はヨハネ」と。たちまちザカリアの口は開き神を賛美したのです。人々はこの出来事に驚いた。「いったいこの子はどんな人になるのだろう」皆は、とても不思議に思いました。
67節「父ザカリアは聖霊に満たされて、預言した」父ザカリアは、聖霊に満たされて語りました。ザカリアは、主が年老いた自分たちに子を与えられた事を感謝しています。それだけでなく、民全体の救いを告げました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」。これは、公の礼拝でイスラエルの神を賛美する祈りの定式です。
この子の誕生から、神の民全体の為に何かが始まっているからです。かつて百歳の老人アブラハムと九十歳の妻サラからイサクが生まれて、イサクの子からイスラエルの民が始まりました。やがてイスラエルは、四百三十年の間、エジプトの奴隷となっていました。エジプトで追い使われ、厳しい扱いを受けたイスラエルは、このまま疲弊して滅びゆくのかと思われました。しかし、滅びの危機にあったイスラエルを、主は救いだし、約束の土地、カナンの地に連れて行きました。それでもイスラエルの苦難は終わりません。カナンの地に定住してからもイスラエルは弱小で、近隣諸国に侵略され、日々命の危険に脅かされ続けます。その民を、主はダビデを通し救いました。ダビデからソロモンの時代にエルサレム神殿が建てられ、イスラエルは、諸国の脅威におびえずに、主を礼拝できるようになったのです。ところがイスラエルは、国が安定し経済的に豊かになると次第に慢心し、不信仰になって、主に背き、その結果ダビデ王朝は滅びました。ザカリアの時代は、神殿は再建しています。ユダヤの指導者はローマ帝国の傀儡ヘロデ王の時代です。ヘロデは、ローマとの同盟関係が第一、ユダヤの民の平和や安全は後回しです。この状況は決して他人ごとではありません。現代のわたしたちの国にも、外国の軍隊の基地があり、環境は破壊され、一度戦争ともなれば標的にされます。住民は毎日様々な負担が強いられます。当時のユダヤの人々も、現代の人も同じように脅かされています。恐れず主に仕えるなどありそうもない。しかし主は、そこから新しいことをなさるのです。
69節「主はその民を訪れて解放し我らの為に救いの角を、僕ダビデの家から越された。」。救いの角、に注目しましょう。羊やヤギのような草食動物たちは、角をあげて敵に力を示します。特に群れのリーダーは、大きな角で敵を威嚇し群れを守ります。ダビデの家から民を救う者(救いの角)が起こるというのです。「主は逆らうものを打ち砕き、天から雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし、王に力を与え、油注がれた者の角を高く上げる」(サムエル上2章10)。ハンナの祈りは、かつてダビデの出現を予告したと思われてきました。しかし、今や救いの角とは、単にダビデ王朝のことを指すのではない。イエス・キリストを指しているのです。70:「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」主イエスは、預言者たちが告げたようにベツレヘムでお生まれになりました。「エッサイの切り株から一つの芽が、萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、主の霊がとどまる」(イザヤ11章1~2)。ダビデの家は、一度滅びて切株となりました。しかし、切り株となったダビデの家から救い主イエスが生まれたのです。『神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」(使徒13章22~23節)。救い主は、わたしたちを何から救われるのでしょうか。
71:「それは、我らの敵、我らを憎む者の手からの救い。…74:敵の手から救われ、恐れなく主に仕える。」。救い主は、わたしたちを敵の手から、救いだし、我らを憎む者達の手から救うのです。では、我らの敵とは誰なのでしょう。外国の軍隊でしょうか。戦争でしょうか。
わたしたちを憎むものとは誰でしょう。職場や様々なところで出会う、わたしたちを憎む人達のことでしょうか。確かに、現代は憎しみに支配された時代だといわれます。ヘイトスピーチ、ヘイトクライムなどという言葉も飛び交っています。ささいなことで人から憎しみをかい、憎しみによって人が命を奪われる事件が起きています。人の敵意におびえて、言いたいことを何も言えずに萎縮してしまう人たちがいます。こうした状況は何も現代だけではありません。今も昔も状況はたいして変わりません。
しかし聖書は、目に見える敵よりも、目に見えない敵の方が本当は恐ろく、わたしたちの脅威です。その敵とは、罪です。罪の力は、わたしたちの目には見えません。罪が力をふるっている限り、わたしたちの敵はなくならない。平和や愛が叫ばれても戦争が繰り返されます。憎しみはこの世からなくなくなることはありません。罪がわたしたちの本当の敵であり、最後の敵です。ですからヨハネは「罪の赦しを得させるための洗礼」を人々に伝えました。人々を悔い改めに導き、主に心を向けさせること、それが主の先駆者ヨハネの務めです。それは、救い主イエスが、わたしたちを罪の支配から解放させるためにお生まれになったからです。 二千年前主イエスは、世の人々を罪から救うためにお生まれになりました。しかし世の人々は、生まれたばかりの幼子イエスに泊まる部屋を与えません。生まれたばかりの幼子イエスは、寒い屋外で飼い葉桶に布にくるまれて寝かされました。大人になった主イエスに対しても人々は、好き勝手にあしらいました。人々は主イエスを、最初のうちは持ち上げました。その動機は様々です。病気を癒していただける。奇跡を見たい。神の国、福音の言葉が聞きたい。赦しや、慰めや励ましの言葉を聞きたい。しかし、人々はやがて心変わりして、何の罪もない主イエスを十字架に掛けて殺しました。 弟子たちは、イエスを見捨てて逃げました。そして本当に主イエスが十字架で死なれたので、希望を失い散らされてしまいます。主イエスこそ、ほんとうに神の下からこられた方だと思っていたのにあの方が死なれるなんて。神さまのご計画もすべて頓挫したと思ったからです。しかし、主イエスは三日目に死者の中から復活され弟子たちに現れて言いました。「メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったのか」。主イエスは、聖書全体が御自分について証ししていることを教えてくださいました。主が死なれたのはわたしたちの罪を償う為であり、復活されたのはわたしたちも主と共に新しい命の約束に生きるためです。もし主が十字架を背負って下さらなければわたしたちは自分たちの罪の為に永遠に神から引き離され、永遠に滅びてゆくはずだったのです。しかし、主によってわたしたちは永遠の命の約束に生きています。「これは神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからの曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者達を照らし、我らの歩みを平和の道に導く」 (78~79節)。主の十字架によってわたしたちは、神と和解させていただいたのです。わたしたちは、主の平和を告げる使者として立てられています。復活された主によって使徒たちは集められ、主が与えてくださった聖霊により教会が建てられました。主イエスは、使徒たちの前で天にあげられたあの人同じ有様で返ってこられます。教会は主イエスが再びわたしたちのところに来られる、その日まで主の死を告げ知らせるのです。わたしたちの目に見える敵は相変わらず猛威を振るっています。わたしたちを憎むもの迫害するものはいなくなくことはありません。しかし、目に見えない本当の敵を主は滅ぼされました。主は世の終わりの日までいつもわたしたちと共におられます。ですからわたしたちはどのような時代が来ても、主イエスを見つめながら前を向いて行きたいと思います。  

(説教者 堀地敦子)