2018年  礼拝説教

「太陽のように輝く」


(ダニエル書12章1~3節、マタイによる福音書13章24~30、36~43節)

「神の国」とは、いったいどのような世界でしょう? わたしたちが目指し歩んでいる、待ち望んでいる世界のことです。このことをわたしたちに教えようと、キリストは一つのたとえを始めました。「天の国は次のようにたとえられる」。良い麦と毒麦のたとえ話です。
ある人が良い種だけを畑に蒔きました。ところがあとから悪い麦がたくさん生えてきて、良い麦に覆いかぶさります。まるで毒麦のほうが多くなって、畑を我が物顔で占領するかのようです。そこでしもべたちが主人に申します。「主よ、良い種だけを蒔いたのではないのですか? いったいどこから、こんなにも悪い種が入ってきたのでしょうか?」 この様子は、わたしたちが生きている現実世界のことを言っています。二千年前、救い主イエス・キリストが世に来られて、救いの種を蒔いてゆかれました。キリストが天に昇られてからは、教会が福音の種を蒔き続け、世界中いたるところに救いの知らせが宣べ伝えられました。この間、イエス様を信じて救われた人たちが、この世界には、数えきれないほどいます。すでに天に召された方々、そして今も地上で福音を聞き、救い種・よき種をまき続けているわたしたちがいます。
にもかかわらず、この世界はどうでしょうか? 争いやいさかいがやむことなく、悲しい事件が後をたちません。神がつくられたこの世界は、いったいどうなってしまったのでしょう。世界は、どこへ行こうとしているのか? 人類はどうなってしまうのか? はたしてわたしたちに未来はあるのか? 毒麦だらけの現実に、押しつぶされそうになっている自分たちを発見します。
そういうわけで、しもべたちは、主人に言ったのです。「このままではいけない、この現実を放っておいたら、今に取り返しのつかないことになる」。「ご主人さま、毒麦を抜いてしまいましょう。今からでも遅くありません。どうかわたしたちにお命じください」。
ところが主人から、意外な答えが返ってきました。「いいや、だめだ。やめなさい。毒麦を今、抜いてはならない」。毒麦を抜こうとして、良い麦まで一緒に抜いてしまってはいけないから。そう弟子たちに、イエス様はおっしゃったのです。 わたしたちなら、どう返事をするでしょうか? イエス様、だいじょうぶです。うまくやります。わたしたちを信じてください。毒麦だけをちゃんと抜いて、この世界を、教会を、もっと良い世界に、あなたに喜ばれる、聖なる・ただしい教会にしてみせます。そう言うのでしょうか?
それはやめなさい。とイエス・キリストはおっしゃいます。なぜなら、わたしたちには、どれが良い麦で、どれが悪い麦か、見極める力も知恵もないからです。いいえ、聖書のみ言葉が与えられています。神様、あなたへの信仰があります。そう言いたくなるかもしれません。いえ、まちがってはいけません。だれが良い麦で、だれが悪い麦か、ほんとうのことを見分けることができるのは神様だけです。主イエスは、すでにこうおっしゃっています。「人を裁いてはならない」。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。…あなたの目からおが屑を取らせてください、とどうして言えるのか(マタイ7章1~4)。
「毒麦を集めようとすると、良い麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない」(13章29)。だから、刈り入れ・収穫の時が来るまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れのときが来たなら、神ご自身がその手で、悪い麦だけを抜き取り、永遠の火に入れ正しく裁いてくださる。その日が来れば、良い麦は神ご自身の手でしっかりと収穫され、神の国に導き入れられる。その日になれば、あなたがたは神の国を受け継ぐことができるのだから。
 「主が再びこられるそのときまで」。これが初代教会以来、すべてのクリスチャンの合言葉でありました。今でもそうです。今わたしたちの目の前には、目を覆いたくなるような悲しい現実、厳しい日常が、繰り広げられています。それは、アダムとエバが自ら罪に落ち、悪い麦の種をこの世界・神の畑に引き入れてしまったからです。わたしたち自身の中にある罪が、悪い種が、この世界を混乱におとしめてきた。自分自身とこの社会、そして共同体を、毒麦が覆いかぶさる畑にしてしまった。それはわたしたち自身の仕業なのです。
ところがわたしたちは、この事実を忘れています。神を無視し、神の敵・悪魔と勝手に取引をして、毒麦をこの畑に引き入れてしまった張本人であることを忘れています。にもかかわらず、目の前にある毒麦を、この手で抜きたくなるのです。ほんとうは良い麦であるかもしれないのに。自分の判断、自分の価値観、自分の気が済むことばかりを考えて、抜いてはいけない良い麦を、毒麦と決めつけ抜きたがる。自分自身が毒麦になってしまうかもしれないのに。
毒麦を抜いてはならない、と主イエスが強くおっしゃる理由が、ここにあります。 キリストははっきりおっしゃっています。毒麦を抜く、それは神様の仕事だ。良い麦と悪い麦をただしく見分け、良い麦だけを集めて神の国の倉に納めるのは、神様の仕事。わたしたちがするべきことではありません。わたしたちがなすべきは、神が定めたその日そのときを、信じて待つことです。たとえ毒麦に取り囲まれ心穏やかでいられなくとも、目の前の毒麦の働きに打ちのめされそうになっても、耐え忍ぶのです。刈り入れのときはまだだからです。寛容と忍耐をもって、そのときを待ち望みます。まもなくその時がやってきます。かならず訪れます。神様による刈り入れの時がきます。その日、わたしたちの救い主イエス・キリストが、天から再び来られて、地上のすべての罪と悪を、一掃してくださるでしょう。不信仰と混乱は最後の審判が必ず開かれます。そのことを信じて、わたしたちは待ち望みます。ただ、ぼう~と待っているのではありません。主に望みをかけて、待つ。待望するのです。この方が、終わりの日に、苦しみ悩むわたしたちを、救いの完成へと導いてくださる。その日、わたしたちの主がもう一度来てくださることを希望し、忍耐をもって待ち望むのです。これが、初代教会以来、主の復活を信じた教会の信仰、そして希望です。
このたとえ、毒麦と良い麦のたとえは、キリストにとってもきわめて重要な教えだったのでしょう。あの有名な種まきのたとえもそうですが、一度たとえが語られた後、意味の解き明かしを、キリスト自らなさっています。今日の聖書でいえば、13章36節からあとがそうです。そこにはっきりこうあります。「それからイエスは群衆を後に残して家にお入りになった」(36節)。すると、このたとえの意味を説明してください、と弟子たちがお願いし。もっぱら弟子たちだけに、み言葉の解き明かしをなさいます。つまり主イエスは、ご自身を信じる者、キリストに信じ従ってきた者たちだけに、神の国の秘密を明かされたのです。
このたとえで、見逃がしてはならないことがあります。38節で、主が解き明かされているとおり、「畑とはこの世界」、「良い種とは御国の子ら」、毒麦とは悪い者たち、これを蒔いたのは悪魔です。たとえそのものでも、あとからの解き明かしでも、主イエスが最初に述べておられるのは、良い種を蒔いたのは「人の子」、キリストご自身なのです。 キリストご自身が良い種を蒔いてくださったはずなのに、どうしてこの世界には、今もこんなに悪がはびこっているのですか? あなたが福音の種をまき、教会ができたはずなのに、どうしてわたしたちの教会は問題ばかり、不信仰がはびこっているのでしょう? そもそも、あなたが蒔いてくださったのは「良い種」といわれますが、このわたしは、こんなにも信仰が乏しく、罪や汚れ、過ちで満ちています。はたしてわたしは良い麦なのでしょうか? 
そうでないなら、もうわたしなど、抜いてしまってください。だれかわたしを抜いて、外の暗闇に放り出してください。イエス様、もうわたしにかまわないでください。もし、そのような嘆きに支配されることがあっても、キリストはおっしゃいます。いいや、毒麦を勝手に抜いてはならない。それはわたしがすること。あなたがすることではない。あなたが毒麦かどうか、どうしてあなたにわかるのか? たしかにあなたの中には良い種と悪い種が同居していて、からまっているかもしれない。自分ではほどけず、苦しいでしょう。でも勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。罪と死に勝利している。自分で自分を抜いてはいけない。あなたの手で、ほかのだれかを抜いてもいけない。あの人のことも、あなた自身のこともわたしに任せなさい。あなた自身をわたしの裁きにゆだねなさい。世界の行く末も、教会の将来も、すべてはわたしの手の中にある。わたしが良い種を蒔いたのだから。必ず芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせ実を結ぶ。わたしを信じなさい。わたしはだれよりも真実で、天の父の力と恵みにあふれているのだから。わたしこそが、わたしだけが、あなたの、あなたたちの羊飼い。この世界とその中にあるすべての教会の頭は、わたしなのだ。
終わりの日に主キリストが再び来られたなら、すべてが明らかになります。その日そのとき、主自ら蒔いてくださった一人ひとり、そして教会が、真に良い種として実を結び、主の手によって刈り入れていただけますように。皆でそうなれるように。皆でキリストと共に永遠の神の国を受け継げるように。キリストへの信仰を高く掲げて、その日に向かっていきたいのです。
「そのとき、正しい人々は、父の国で、太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」  

(説教者:堀地正弘牧師)

「神に喜ばれる」


(詩編23編、1テサロニケ4章1-12節)

東京神学大学に全盲の神学生がいます。生まれつき目が見えないそうです。チャペルの一番前の席に点字の聖書と讃美歌が置いてあるので、わたしも、そこに行くまでを助けたことがあります。今年度から、彼は盲導犬と一緒の生活を始めました。盲導犬の名前はキング。真っ黒なのですがゴールデン・レトリバーと聞いています。仕事中の盲導犬は堂々としています。しっぽを振りながら礼拝堂の中に導いていくのです。喜んで仕事をしていると思いました。さまざまな訓練を受けてできるようになった仕事でしょう。
盲導犬ではなく、聴導犬というのもあるそうです。耳の聞こえない人に大切な音を教えます。 ドアのピンポンが鳴っています。ヤカンがピーって言っています。赤ちゃんが泣いています。耳の聞こえない人のそばに行って、こっちこっちと合図をするのです。聴導犬を育てるための団体があります。ずいぶん前にテレビで見たことですけれど、このような訓練を受けないで、自分で聴導犬になった犬の話がありました。その犬が、音を教えたらとても喜ばれたという経験が積み重なったのかも知れません。後になってネットで調べたのですが見つかりませんでした。でも確かに実話でしょう。「この犬のおかげで、安心して子供を産み、そして育てることができました。感謝しても感謝しきれません。」と言っていたと思います。
さて、今日の聖書、1テサロニケ4章1節~12節は倫理について、生き方について教えています。1節に「歩む」、12節にも「歩む」とあります。1節~12節は「歩む」に囲まれていますが、そこには「歩む」について大切なことが書いてあります。「歩む」とは生きることです。生き方について大切なことは、神を愛することと人を愛することでした。例えば、マルコ福音書12章29節~31節です。「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
9節の「兄弟愛」はキリスト者同士の愛です。テサロニケはギリシアの北の部分、マケドニア州の中心の町でした。この教会に、マケドニアのほかの教会の信者が来れば、歓迎します。また、テサロニケの人たちが、ほかの教会を頼って行くこともあります。生まれて間もない教会で、使徒言行録(17章5節~9節)のように、ユダヤ人などの妨害で困ることがあったようですが、兄弟愛については合格しているようです。でも、兄弟愛だけでは内向きです。
先週の祈祷会で読まれた聖書は、今日の聖書のすぐ前(1テサロニケ3章12節)ですが、そこには、「主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」というパウロの祈りがありました。内向きではなく、「すべての人への愛」です。パウロはもっと先を見据えていたのです。
11節では、落ち着いた生活をすること、自分の仕事に励むこと、自分の手で働くことが求められています。キリストの来臨が近い、世の終わりが近いから、貯金なんて必要ない。働く意味もない。と考えることがあったのかも知れません。キリストの来臨は、終わりの側面がありますが、御旨の完成が大切なことです。
いずれにせよ、新しい教会はその場所で受け入れられる必要がありました。ユダヤ人たちは昔からそこに居ました。長い時間をかけて信頼されるようになったのです。「あの人たちはまじめだね。よく働くね。だから、変わっているけど安心できるね。」なんて言われるようになっていたのでしょう。キリスト教の教会も、同じように信頼を勝ち取る必要がありました。
さて、3節~8節の内容について、ロマ書2章21節~23節が参考になりそうです。「『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」これはパウロが同じユダヤ人に対して言っている言葉です。ユダヤ人が罪だと嫌っていることを、ユダヤ人自身がやっているではないか。ユダヤ人の罪を糾弾しているのです。ユダヤ人から見たら、異邦人は偶像礼拝をし、性的なモラルが低くて姦淫をし、隣人をむさぼって盗みをする。そうならないように、という注意でしょう。
3節~8節全部を、性的なモラルのことと考える注解書もあり、性的なモラルとむさぼりについて書いてあると考える注解書もあります。3節~5節を読みます。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」確かに、「みだらな行い」とは性的不道徳(ポルネイア)で、はっきりしています。けれど、情欲とあるところは強い欲望という言葉であって、性的な欲望とは限らないのです。
さらに細かく見ていくと、もっと深くて広いのです。3節~6節まで1つの長い文章になっています。次のような内容です。あなた方が聖であることが神の御心であり、第1に性的な不道徳から離れていること、第2に汚れのない心と尊敬の念をもって生活することを知っていること、第3に権利を侵害してむさぼり取ることのないことです。さらに切れ目なく、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになると続きます。
4節で妻と訳されているのは、もともと器という言葉です。2コリント4章7節に「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」という言葉があります。器には人という意味があります。ユダヤ人は器で妻を示すことがあります。でも、異邦人のテサロニケの人たちにはそれがすぐに通じるかどうかはわかりません。妻のつもりならはっきりと妻としておけば良いはずです。
もう1つ、「汚れのない心と尊敬の念をもって」とは、「聖であることと名誉において」というのがもとの意味です。
そこで4節と5節を、必要な部分を補いながら直訳すると、「あなた方1人1人が、聖であることと名誉において、あなた自身の器(人)をどのように保つかを知ること(が神の御心です)。神を知らない異邦人のように抑えられない欲望において、あなた自身の器(人)をどのように保つかではありません。」つまり、「欲望においてではなく、聖であることと名誉において、あなた自身の器(人)をどのように保つかを知ること」。これが神の御心なのです。
ある英語の聖書(NRSV)では、器を身体、つまり、「自分自身の身体を、聖であることと名誉において保つ」としています。自分を清く保つことは重要です。これは自分を愛することです。しかし、それに留まっていて良いのでしょうか。内向き過ぎないでしょうか。自分を愛することは出発です。隣人を愛することが求められているのです。やはり、器は妻や身体と限らない人です。隣人です。「あなた自身の器」とは「自分と関係の深い人」という意味で受け取るべきだと思います。当然、妻のことも考えられます。自分自身の子供、自分自身の親ということもあります。あるいは会社などで責任を負っている自分の部下という場合もあるでしょう。性的な欲望も含まれるので、性的なモラルについてこれを考えると、いわゆるセクハラ、児童虐待の問題は大きいです。父親と娘だけではなく、母親と息子との問題もあります。隠されていて大きい問題です。しかも多いのです。
ここで、性的なモラルに限らずに、4節と5節では、身近な人に対して、聖であることと名誉において正しい関係を持つことが求められているのです。
さて、6節にある「そのようなこと」とは「商売の取引」という意味で使う言葉です。ここも性的なモラルを言っているとは考えにくいです。確かに、昔、妻は夫の財産だから、姦淫は財産を奪うことになる、という考えがありました。しかし、パウロがここで言っているのもそうだとは思えません。いろいろな欲望が、他の人を踏みつけたりあざむいたりすることでしょう。単なる金儲けが、他の人を圧迫し、貧困に陥れていることがあります。現在、格差は大きな課題です。
7節は大切なところをくり返しています。「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」すなわち、「神は私達を聖なる生活をするように招かれている
のです。」3節にあるように、「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」聖であること、これは神のために取り分けられている状態です。あらゆることにおいて最も高いことが求められています。
このように高いことは無理だ、と思う必要はありません。少しずつでも聖であることを目指した歩みを続けることが大切だと思います。もっと後の5章23節~24節にこうあります。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」
主は、私達を十字架で救い、神の者、神に仕える者となさったのですから、終わりの時まで前進させて下さいます。
実は、今日の聖書のはじめの言葉が、私は、大好きなのです。1節です。「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。」
前に、わたしが中学1年から2年になるときに洗礼を受けたことを話させて頂きました。早い受洗でした。でも、2年生から3年生と進むにつれて、スランプのような状態になっていきました。「『神様が天地をつくり…』といった膨大な知識を持っていることが大切なのか。こうしたことが本当だと考えていることで良いのか。」こうしたことで、行き詰まっていた感じです。ところが、高校1年の時、クラス別の礼拝でこの聖書が読み上げられたとき、さわやかな風が吹いてきたように感じました。「これだ」と思いました。大切なのは知識や考えではなく、神様との関係なのです。主イエスと結ばれている、正しく結びついていることが第1なのです。それが出発なのです。そして、神様に喜ばれるように歩むことです。
今日はじめに申し上げた盲導犬や聴導犬の例、これは手本だと思います。知識ではなく、喜ばれること。神に喜ばれること。非常に高い要求です。神様のように聖であることですから。でも、選ばれ愛されている者にとって、絶望的な要求ではありません。私達は導かれています。神の導きに従って、終わりの完成を目指して進んで行きたいと思います。共に、歩み続けて参りましょう。  

(説教者:早川明彌神学生)

「開かれた」


(イザヤ書35章3~8節、ルカによる福音書24章13~35節)

神学生として過ごした最後の夏、卒業論文に明け暮れていたころのことです。毎朝、家の近くの児童公園で、朝のお祈りをしていました。一番大きな木の前で、聖書を読み祈るのです。すると小さな子どもたちが何人か寄ってきて、聞いてきました。「お兄さん、何をしているの?」 「神様とお話ししているんだよ」。そう答えると、子どもたちの反応は、「ええ~、本当? 神様っているの?」 「神様なんていないよ。変な人」。家に帰る途中、思いました。「神様がいるかいないか分からない人にとっては、お祈りはただの独り言か」。
「独り言のような祈りをしてはいけない」。宗教改革者たちは、よくそう教えました。キリストの御名によって、天の父に呼びかける祈りを、ただの自問自答、むなしい独り言にしてしまってはいないか? そう戒められてきました。独り言だけでなく、むなしい二人言、三人言、そういうこともありはしないかと思わされます。
ルカ福音書24章には、よみがえられた主キリストが、二人の弟子にご自身の姿を現わしたときの様子が生き生きと描かれています。
13節:「この日」、すなわち主イエスが十字架にかけられてから三日目、イースターの日です。ペトロや婦人たちは、空になったキリストの墓をその目で見ました。この知らせは、キリストが死人の中からよみがえり、わたしたちの救いを約束どおり成し遂げたことを伝えています。しかし二人の弟子は信じることができませんでした。そのため生まれ故郷のエマオへ帰る途中でした。
そこにこの日よみがえられたイエス・キリストが現れます。信じることができない二人の弟子と、主は歩みを共にされました。ところが二人は、キリストだとは気づきません。二人の目が遮られていた。原文では、何ものかに二人の目が「捕らわれていた」ためです。二人は歩きながらずうっと、主イエスの十字架の最期について、語り合い議論していました。そこに主イエスが加わったのです。
キリストの方から二人に歩み寄り、彼らの議論を聞いた主は、二人に問いかけました。「一体これらの言葉は何ですか? あなたがたが歩きながら、互いに投げ合っている言葉は誰のことですか?」 すると二人は、悲しそうに立ち止まってこう答えました。「あなただけが…知らなかったのですか? ここ数日、この町で起こった一連の出来事を」。「ナザレのイエスのことです」。
何ものかに目を遮られて、まさか主イエスだとは気づかなかった。とはいえ、なんという物言いでしょうか。「なぜ知らないのだ」ととがめ、あんたは何もわかっていない。そういわんばかりに、キリストの死と復活の知らせを、上から目線で語り始めます。しかも彼らは、主イエスが十字架で死んだ事実こそ知っていますが、主のよみがえりをまだ信じられずにいます。だから、弟子たちのいるエルサレムを離れて、生まれ故郷に帰ろうとしていたのです。
「わたしたちは主イエスこそ、イスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。でも、あの方は十字架で命を奪われ、いなくなってしまった。三日目のこの朝、婦人たちが空の墓を見つけ、天使たちが「主は生きておられる」と語ったという。でも、そんなこと俺たちには信じられないんだ。この人こそ、と望みをかけていた方が、あっという間にいなくなってしまった。もう元の暮らしに戻るほかないじゃないか。むなしい思いで、二人は主と共に歩んだエルサレムを後にしてきたのです。
この二人の会話に、キリストは最後まで耳を傾けました。そしてもはや二人の口から何も言葉出てこない。信仰も希望も、主への愛も出てこない。悲しみ嘆きのすべてを打ち明けた。そのことを見極めたかのように、今度はキリストが二人に向かって口を開きます。「ああ、なんと愚かで、分別のない、物わかりの悪い者たちよ。」 「信じる心が鈍い」者たちよ。そう言って、主イエスがお語りになったのは、「キリストは苦しみを受けて、それから栄光の中へ入るはずだったのではないか。そのように、神があらかじめお定めになられたのだ!」 こう言うとキリストは、モーセとすべての預言者たちから始めて、旧約聖書のあらゆる箇所から、ご自身について証し(解き明かし)し始めました。
お気づきでしょうか? キリストが語られた言葉は、二人の弟子たちがすでにその目で見てきたこと(キリストの十字架での死)。婦人たちからすでに聞かされていた言葉(主の復活)と同じです。同じ内容なのです。しかし、仲間や天使たちから福音の言葉を伝えられても、キリスト復活の知らせを受けても、二人は信じられませんでした。キリストは死んでしまった。その目で見た絶望的な現実に、二人は捕らわれたままだったのです。死の力、罪の力がもたらす絶望、陰府の力に、わたしたち人間は対抗することができません。たとえこれまで主イエスを信じ従ってきたとしても、主イエスの十字架、そしてよみがえりを信じられなくなれば、わたしたちの信仰は露と消えてしまうでしょう。
この絶望的な状態から、キリストが、二人を、そしてわたしたちを救い出してくださいました。二人は、これまでと同じ内容の言葉を聞きました。ちがうのは、今それを語ってくださっているのが、救い主イエス・キリストご自身であることです。キリストの十字架の死がわたしたちの救いのためになくてはならなかった。それを定めた神が、死人の中からわたしたちの主を救い出し、復活させた。主キリストこそ、わたしたちにとって救いであり、望みのすべてだ。キリスト勝利の知らせを、目の前にいるキリストご自身から、二人は、今まちがいなく耳にしているのです。
このときの二人はまだ、自分たちに寄り添ってくださる方がだれかを知りません。二人の目はまださえぎられたままです。しかし主がこの二人に寄り添い、み言葉を語り続ける限り、勝負はまだついていません。主が語り続けると、その言葉に耳を傾け続ける二人に、ある変化が起こり始めていました。そのことが、28節以下で明らかにされます。
日も傾き、目指したエマオの村に二人は近づきました。ところがあの方はなおも先に進まれる様子です。このとき二人は、心を決して言いました。「どうかわたしたちと一緒に、今夜お泊りください」。無理を承知で、二人は主イエスを引き留めます。すると主は、二人の願いに応えてくださいました。
夕食のときのことです。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」二人に渡します。その瞬間、二人の目は完全に開かれました。主イエスだと分かりました。すると次の瞬間、主の姿はもはや見えなくなっておりました。一瞬のことだったのです。主キリストの姿がはっきりと見えたのは。
しかし二人には、もう十分でした。二人は互いに言います。「道で主が話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。そう語り合うや、二人はすぐに宿を引き払い、夜の暗闇を恐れず、今来た道を戻って行きます。エルサレムではすでに迫害が始まっていました。これを恐れて二人は、故郷に身を寄せようとしていたのです。
しかし、主キリストをはっきりと見た二人には、自分たちの生きる場所がどこか、はっきり見えました。復活の主を信じ、約束された聖霊を受けるために、エルサレムへと向かいます。主に従うためです。エルサレムに戻ってみると、かつて二人に主の復活を告げ知らせたペトロたち、婦人たちが集まり、互いに語り合っていました。「本当に主はよみがえられ、シモン・ペトロに現れた」。そこで二人も、エマオへの道すがら、主が自分たちに現われ、み言葉を語り、パンを裂いてくださったことを、喜びにあふれて語り合いました。
イースターのこの日、なんと大いなる神の御業が行われたことでしょう。主をほめたたえます。この出来事は、今もキリストを教会の主と仰ぐわたしたちの群れに、大切なことをいくつも教えています。
ひとつには、この二人の姿はまさに、わたしたち自身の姿、教会の姿のようです。教会で信仰生活を長く送っていれば、キリストの十字架の意味、復活のこと、たくさんのことを知ることができます。ただしそれだけでは信仰にはなりません。どれだけ多くのことを知っていても、わかっていても、それが問題ではないからです。教会のこと、信仰について、わかっているつもりになって、実は一番大切な方を見落としてしまう。そういうことが、わたしたちにも起こります。最初あの二人がそうだったように、イエスについて、救いについて、多くを語り合い議論することはできるのです。でも、救い主の姿がはっきり見えているでしょうか。いつも復活の主に望みをかけて、この方に聞き、この方だけを見上げて歩んでいるでしょうか。
わたしたち、教会にとって最も大切であるはずの御方の姿が見えなくなる。主に望みを置くことができなくなる。少しのことで、すぐにそうなってしまうわたしたちです。しかし、そのようなときですら、復活の主は、わたしたちに寄り添い、今も御言葉を語り続けてくださいます。信仰の目がふさがれ、信仰の心が鈍くなっているわたしたちを目覚めさせてくださるのが、復活のキリストです。
そして、今日一番心に留めたいのは、主の御言葉と共に、主の聖餐にあずかる恵みです。ふさがれたわたしたちの目が開かれ、今まで主がともにいてくださった。今の今までまったく気づくことも感謝することもできなかったけれども。よみがえられた主は、これまでも、今もそしてこれからも、とこしえに共に歩んでくださる。わたしたちの主であられる。この主を仰ぎ見ることができたのは、主キリストが賛美の祈りをささげ、パンを裂いてわたしたちに渡されたその瞬間です。
この瞬間まで、心の鈍くなったわたしたちに、キリストが忍耐と愛をもって御言葉を宣べ伝え続けてくださいました。目が開かれたのは、そのおかげだともいえます。けれども誤解を恐れずいえば、福音の説教だけでは、復活の主とまみえること、復活のキリストと交わることはできません。主のみ言葉に導かれて、さらにその上、主ご自身が裂き流した肉と血とにあずかる。聖霊の導きにより、信仰をもって、真実に主の聖餐にあずかる。これなくして、教会は主キリストを頭とすることはできないのです
冒頭に、独り言のような祈りから、主イエス・キリストとの親しき交わりとなる祈りへ、という意味のことを言いました。わたしたち教会の営みが、独り言ならぬ二人言や三人言に陥り、終始するのないように、祈ります。すなわちキリスト抜きの議論・話し合い・会話です。もちろん、主のご臨在のもと、主の約束の言葉を信じて、それを実現するために議論するのは大切です。だからとって、議論がわたしたちを信仰に目覚めさせるわけではありません。このことは、主の御言葉と聖餐によって信仰の目を開かれた、あの二人の姿が証ししています。
二人がエルサレムへ帰ると、そこでは「むなしい議論」はもはや影をひそめていました。主の復活を喜び、主をほめたたえ語り合う、弟子たちの信仰の交わり。十字架と復活の主キリストを高らかに宣べ伝えよう、との伝道の息吹きが、弟子たちと教会全体を包んでいました。
キリストにより信仰へ開かれた弟子たちの姿こそ、初代教会以来、すべての聖徒たちが追い求めてきた、真の教会の姿です。救い主イエス・キリストのものとされたわたしたちの歩みは、いつもここから始まります。

(説教者:堀地正弘牧師)

「主に倣う者」


(ヨエル2章12~14節、1テサロニケ1章2~10節)

私は、キリスト教主義の中学に入学して、中学1年から2年になる春に洗礼を受けました。早い洗礼だったと思います。すごい先生がいたからだと言えます。(金原末雄先生という方です。)その先生の話を、「その通りだ、その通りだ」と受け容れていました。はじめに聞いた話はこうだったと思います。「聖書には神様のことが書いてあるのかと思うとちがいます。神様が先ず天地をつくられたと書いてあります。」ここからはじまり、罪のことを正面から取り上げ、「人間はわらくず」と強調されました。そのときは、だれも反発しなかったと思います。今は、ちょっと考えられないでしょう。私の洗礼を、前年度まで校長だった先生が喜んで、讃美歌をプレゼントしてくださいました。(前校長は、中村金之助というお名前でした。)
洗礼を受ける人が出ることは喜びです。新しい人が教会に来てくれることもうれしいです。でも、その人がそのままではちょっと寂しいです。教会はいいところだと思っているだけでは物足りません。「洗礼を受けます」と一歩踏み出すことは感謝です。
さて、使徒言行録によれば、テサロニケではユダヤ人の妨害があり、騒ぎが起こって大変でした。テサロニケの教会の誕生は、パウロにとってそれだけ喜びが大きかったと思います。
もとのギリシア語の言い方では、1テサロニケ(テサロニケの信徒への手紙Ⅰのこと)1章2節のはじめで、「私達は感謝しています」と言っています。この文章は5節の終わりまで続く1つの長い文です。4節まで感謝の様子をあらわしています。新共同訳で2節は「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」これを簡単に言うと「…を思い起こして神に感謝します」となります。同じように3節、「…を心に留めて神に感謝します」。4節、「…を知って神に感謝します」と、「私達は感謝します」に繋がるのです。5節はその説明です。「なぜなら」といった言葉で始まっています。
3節は重要ですが後回しにさせてください。4節が1つのポイントでしょう。「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」。テサロニケの人たちは「神に愛されていて、選ばれた」のです。
もう1つの聖書、ヨエル書2章12~14節には、「主に立ち帰れ」と書いてあります。これはユダヤ人に宛てているのですが、キリスト者は、自分たちのことだと考えます。テサロニケの人たちは異邦人のキリスト者です。ユダヤ人でないのに、神に愛されていて、選ばれて、神に立ち帰ったのです。
テサロニケの人たちは、ギリシア中の信者の模範になりました。マケドニア州とアカイア州とは、ローマ帝国の分け方であって、これがギリシアのすべてになります。多くの教会で評判になり、喜びに沸き返ったのです。そのとき、キリスト者の数は少なくても、教会同士のつながりは強かったようです。つながりが強くて支え合っていることは、今でも教区の教会が支え合っているのと同じです。
テサロニケの人たちは神に立ち帰りました。1テサロニケ1章9~10節のもとの文の主な骨組みは、「神に立ち帰ったのは、神に仕えるためであり、御子が来られるのを待ち望むためです。」 読みます。9節から10節、「彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」
実は、1テサロニケの中心テーマは、キリストが再び来られると言うことです。キリストが来られたとき、つまりイエスが誕生されたとき、神の国が来ました。でも、神の御旨が成ったのは全部ではありません。すべてが御心の通りになるのは、再び来られるときです。それは裁きの時ですが、テサロニケの人たちは、神に愛されていて、選ばれていたのです。同じ1テサロニケの後の方ですが、5章9節にこうあります。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」これはテサロニケの人々に向けられた言葉です。主の内に入れられた者なら、私達もこのまま受け容れることが許されている言葉です。
さて、3節に有名な言葉が三つあります。信仰、愛、希望です。直訳では、信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐。そして、「私達の主イエスキリストの」という句が続いています。順序についてお気づきでしょうか。有名な1コリント13章13節では信仰・希望・愛でした。そして、愛が一番大切でした。今日の聖書1テサロニケでは、希望が最後で、それが強調されているのです。最後を印象づけようとしているのでしょう。これは10節につながります。世の終わり、主の来臨を待つ希望です。詳しい話は4章13節以下に示されています。ここでは、その話の予告になります。
ちょっとこだわった話をさせてください。自分の根性を大切にしてしまうことのないようにということです。
根性でこんなことがありました。かなり前ですが、ひどい下痢になって困ったことがありました。久しぶりに近所のお医者さんに行きました。すると、いつもとは違う若いお医者さんがいて、代理をしているようです。こう言いました。「ウィルス性の腸炎です。薬はありません。」そこで、「じゃあ根性で直すのですか。」彼はちょっと笑って、「そうです。」でも、考えてみると、自分の体も自分の根性ではどうにもならない。結局は、自分の体に与えられた働きに頼ること、癒やされるのを待つことになるのでしょう。
先ほどの希望ですが、「私達の主イエスキリストの希望の(あなたたちの)忍耐」がもとの言葉です。新共同訳の「わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」を、忍耐しているという人間の根性を大切にしているとお考えにならないでいただきたいのです。「キリストの希望」という言葉を「キリストを希望すること」と解釈したからこのような文章になったのです。
「…の…」という言葉はいろいろな意味になります。「病人の見舞い」という言葉は「病人を見舞うこと」です。病人が出向いていって…、とはなりません。病人はベッドにいて、誰かがそこに来るのです。だから、「病人の見舞い」という言葉は「病人を見舞うこと」です。「早川のエラー」と言ったら、「早川がエラーをしたこと」になります。早川という名前の選手がいて、それがエラーをしたから、チームがサヨナラ負けをしたのでしょうか。「早川のエラー」と言ったら、「早川がエラーをしたこと」になります。「私の財布」となったら、「私が」とか「私を」とかにはなりません。私の財布は、ただ私に属するものです。
「キリストの希望の忍耐」という言葉を、「キリストを希望する忍耐」と解釈して翻訳したので、「わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」となりました。「キリストを希望する忍耐」であっても、「キリストを私が希望して忍耐すること」であっても、私の根性で何とかなるものなのでしょうか。「オレには根性があるから希望して忍耐するぞ。」それが望ましい姿でしょうか。希望は、もともと私が持っていたのでしょうか。「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」(ヘブライ12:2)方のものではないでしょうか。希望は主イエスのものです。
「私達の主イエスキリストに関わりのある希望の忍耐」なのです。私達の希望は、キリストが持っておられる希望に裏付けられているのです。私達の希望はキリストの希望に与ることなのです。
キリストが中心です。すると大切なのは6節になると思います。「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」とあります。初めて伝道したパウロを見習ってほしい。ほかのところでも、パウロは自分に倣いなさいといいます。でも、それで終わりではなく、パウロが目指しているのはキリストです。キリストに倣う者になってほしいのです。信仰も愛も希望もキリストのものです。私達も、キリストに倣う者になりたいのです。  

(説教者:早川明彌神学生)

 「神の子イエスさま」


(ルカ8章26~39節)

みなさんは、お墓に行ったことがありますか? おじいさんやおばあさん、ずうっと前に亡くなった方のお墓参りに行くことがあるでしょうか。(それとも「きもだめし」でしょうか?)
実は、私が育ったお家(東京)の裏は、お墓でした。とても広い墓地です。たくさんのお墓があります。夜、暗くなるとカラスが鳴いて、子どもの頃、ちょっと怖かったです。 いたずらとか悪いことをすると、お父さんに怒られて、こういわれました。「そんなに悪いことをするなら、裏のお墓に置いていくぞ。今夜は、お墓で寝ろ!」。そういわれたら、「ごめんなさい、お父さん。もうしません」。何か悪いもの、とてつもなく怖いものが出てくるような気がして、お墓が怖くて怖くてたまらなかったのを、今でもよく覚えています。
イエスさまがおられた頃、ユダヤにもたくさんのお墓がありました。(人はだれでも、どんなに長く生きても、必ず死んでいくのですから、お墓のない国や場所はありません。) イエスさまの頃のお墓は、町や村から離れた場所にありました。ふだん、人はあまり近寄りません。(死がこわいからです。けがれた場所とも信じられていました。) ある村に、イエスさまと弟子たちがやって来ました。この村の墓場に、男の人が住みついていました。お墓の番人ではありません。なんと悪霊にとりつかれていたのです。大きな声で叫んだり、あばれています。服も着ておらず裸です。家族や村の人たちは、この人がこわくて、どうすることもできないので、鎖でつなぎました。暴れるからです。ところが、ものすごい力で、鉄の鎖を引きちぎって、大声で叫びながら、荒れ野(砂漠)の中へ入っていきました。
そこにイエス様がやって来られました。イエスさまを一目見ると、この人にとりついていた悪霊が、大声でこう言いました。「いと高き神の子イエス、わたしにかまうな。頼むから、わたしを苦しめないでくれ!」 悪霊は、一目見ただけで、イエス様が誰かわかりました。悪霊は、イエス様のことをよく知っていたのです。
悪霊とは、悪魔の手下、子分です。目には見えませんが、わたしたちの心に働きかけて、悪いことをさせます。本当は、したくもないひどいことを、わたしたちにさせたり、言わせたりします。
思わず、ひどいことを人に言たり、いけないことをしてしまって、後で後悔したことはありませんか? ひょっとしたら、それも悪霊の働きかもしれません。神様に感謝することができなくなったり。どうしても愛せない、あの人のことがゆるせない。そんなふうに思ってしまったり。お祈りしたくなくなったり、教会に行きたくなくなったり。礼拝がきらいになったり。そういう心も、悪霊の誘惑かもしれません。
でも、悪霊や悪魔にさそわれ・そそのかされたからといって、わたしたちがしたこと、口に出した悪い言葉、悪い行いが、無罪になるわけはありません。誰かに誘われたとしても、悪いことをしたら、それは、わたし自身の責任です。いけないことをしたり、神様や人を憎む心も、そうです。わたし自身が犯した罪は、わたし自身が背負わなければなりません。だから、そのままいけば、わたしたちはみんな地獄行き。墓場よりももっと恐ろしい所に行って、そこから帰ってくることは、永遠にできなくなるのです。 そんなわたしを、悪魔の力から救い出すために、イエスさまは来てくださいました。悪霊に取りつかれている私。罪の力にしばられて、したくもない悪さを働き、人を傷つけ、なにより自分自身を傷つけてしまっている。そんなわたしたちを悪の力から解き放ち、神様のものとして取り戻そう。そのためにイエスさまは、この世の罪と悪の力と戦ってくださいました。そしてついにイエスさまは悪魔に勝ちました。これが十字架の上でイエス様がしてくださったことです。
今日の聖書をみてください。悪霊はイエス様に従います。「この人から出ていけ」。イエス様がそうおっしゃったら、もう逆らえない。だから悪霊は、イエス様にお願いします。 「お願いです。わたしたちを滅ぼさないでください。豚の群れの中に入らせてください」。「よろしい、そうしなさい」。イエス様が言ったあと、結局、悪霊たちは、崖から海の底へ落ちていきました。海の底には陰府の世界が待っています。悪霊たちは、神様がおっしゃるままに、キリストに裁かれて、深い深い闇の底に落ちていくほかありません。そこからは、もう二度と戻ってこれません。こうして悪霊たちは、イエス様の力で、あの男の人の中から出ていきました。
見ると、さきほどまで、怖い顔で、大声を張り上げて、あばれまくっていたあの人が、しずかにしずかに座っています。イエスさまの足元で、安らかな顔をしています。イエス様と出会うまでは、何かにとりつかれ、いつも何かに怒りをつぶつけているようでしたが、もう怒っていません。叫んでもいません。服を着て、この人らしい元の姿に戻っていました。イエスさまの力で、自分を取り戻すことができたのです。
町の人びとは、この出来事を見てびっくりしました。すぐに町中に、イエス様がしたことを知らせました。
イエス様に救われた、あの男の人は言いました。「イエスさま、あなたについていきたのです。わたしをイエスさまの弟子にしてください。」 するとイエス様はおっしゃいました。「よろしい、わたしの弟子になりなさい。あなたの家に帰って、神様があなたにしてくださったことを、家族やおともだちに伝えなさい。」
そこで、この人は、家に帰って、イエスさまがしてくださった救いの業、神さまの恵みを、みんなに伝える人になりました。 このお話しは、イエス様がどれほど力ある救い主でいらっしゃるか、を伝えています。悪霊たちは、必ずイエス様に従います。 悪霊たちは、イエス様のことが一目でわかりましたね。反対に、わたしたち人間は、イエスさまが神の子でいらっしゃるのに、なかなか気づけません。イエス様のことが信じられません。イエスさまのことを、「お前は悪魔だ、悪霊使いだ」と言って攻撃した人さえいました。 イエスさまがだれなのか、わからなくなってしまうときが、わたしたちにもあります。イエスさまを信じているはずなのに、信じてきたはずなのに、神様がわからなくなってしまうのです。でも悪魔や悪霊はイエス様のことをよく知っています。しかも、イエス様には絶対かなわない。イエス様には勝てないと、悪霊たちは知っています。だから悪霊は、どんなにたちの悪いやつでも、必ずイエス様に従うのです。イエス様に逆らったらもうおしまいだ。滅ぼされてしまう。そのことがわかっているから、イエスさまを恐れているのです。
わたしたちも、イエスさまを畏れます。悪魔を倒せる方なのですから。でも、イエスさまを怖がる必要はありません。イエス様は罪を憎みます。悪を嫌います。でもそれ以上に、わたしたちを愛してくださっています。だからこそ、悪霊・悪魔の力から、命がけでわたしたちを救ってくださったのです。イエス様に従いましょう。イエスさまの愛を信じて、悪魔を打ち負かすことのできるイエスさまを畏れ敬い、礼拝しましょう。これからもずうっと、イエスさまと一緒にいましょう。イエスさまに従っていくなら、どんな誘惑・悪の力が襲ってきても、イエスさまが守ってくださいます。わたしたちを必ず守り通してくださいます。イエス様にはそれができるし、あなたを守ってあげたい。心からそう望んでくださっています。それがイエス様です。いと高き神の子主イエス様に、栄光がありますように。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「主の榮光」


(出エジプト記33章18~23節、ローマローマ9章15~18節)

人生の目標が明確である時、わたしたちは迷いません。たとえ困難があったとしてもそこに意義を見いだせるなら決してくじけません。しかし、意義を見失ったときわたしたちは迷います。幼い時、大人の期待に応えるだけで満足できました。けれども、成人に近づいて親の期待に添うだけでは満足できなくなることがあります。親の期待は、時に無茶な要求もあり、親の都合や身勝手な要求もあるからです。本当にわたしがわたしらしく生きる目標、自分や家族の幸せの為だけに生きるのでなく、より多くの隣人のため、普遍的で正しい目標を求めるようにもなるでしょう。
シナイ山で、主はイスラエルと契約を結びました(24章)。イスラエルは、単なる安上がりの働き手であり、労働力だけを求められた人々。追い遣う者たちの要求に応えるだけだったイスラエルを主は特別な民となさったのです。主は、イスラエルを教え導くため十戒を授けました。モーセは、主の戒めと教えが記された契約の書を人々に読み聞かせ、民は答えました。「わたしたちは主が語られたことをすべて行います。」(出エジプト24章7)。イスラエルは特別な民とされた。それがイスラエルの存在意義です。主の契約に生きることがイスラエルの存在意義でした。しかし、その意義が見失われたのです。どうしてそうなったのでしょうか?
それは、モーセが不在の時に起こりました。主の契約の言葉を受け取るため彼は山に上り中々戻って来ません。民は、アロンに迫ったのです。「我々に先立って進む神々を造って欲しい」と。『これこそ、あなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んだ。モーセは生きているのか、死んだのか分からない。我々を荒れ野に置き去りにしてどこかに行ってしまったのかもしれない。そもそも、モーセを遣わした主などいたのか。我々には、主の契約は役に立たなくなった。新しいビジョンが必要だと。これが偶像を造ったイスラエルの人たちの言い分です。偶像を拝む者たちは偶像に似たものになります。偶像は自分で見たり聞いたりできない。自分で判断したり、自分の足で歩むこともできません。それと同じように周りの人々に引きずられ利用されてしまうのです。
主は、激しく憤りイスラエルを滅ぼすといわれました。モーセから新しい民を創造すると主は仰いました。モーセは、主とイスラエルの破れ口にたち嘆願ました。「どうか、怒りを静めてください。あなたが導き上った民ではありませんか。…」。モーセの執り成しを聞き入れて、この時は思い直してくださいました。モーセにイスラエルを乳と蜜の流れる土地に連れて行きなさいといわれました。 主はイスラエルの間にあって進むことはしない。偶像礼拝の罪を犯したイスラエルと共に行くことはしないといわれました。主は途中でイスラエルを滅ぼしてしまうことがないようにするためです。民はこれを聞いて、深く悲しみエジプト人から受け取った金銀の飾りをはずしました。主は、モーセにイスラエルを約束の地へ導くようにといわれました。
モーセは二つのことを願いました。一つ目は、共に遣わされる者を示して欲しい。一人でイスラエルを導く自信は湧いてきません。彼も目標を見失いかけていました。モーセと共に行き、共に重荷を負う者を示して欲しいと願いました。主は、モーセの願いを聞き、主が自らモーセと共に生き、主が好意を示す、主が御自身の安息も約束されました。主がモーセの名を呼んで選ばれたからです。もう一つモーセは主に願い求めました。「あなたの栄光をみせてください」。主の栄光を見させていただきたいと願いました。この願いは、非常に危険なものでもありす。神の栄光を見ることは、罪人であり、被造物に過ぎないわたしたちには、本来は赦されないことだからです。人間は、神の栄光を見てなお生きていることは出来ない。主の栄光を見たイザヤも、「災いだ、わたしは滅ぼされる」と言っています。それでもあえて、モーセは主の栄光を求めました。
主は、モーセに4答えました。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」善い賜物とは、すべて神の性質を表しています。すべての善い者は神から来るからです。「あなたは、わたしの顔を見ることは出来ない人はわたしを見てなお生きていいる事はできない。」主の顔をみることは、モーセであっても死を意味します。主の御顔を直接見ることはできません。その代わりに主は背中を見せるのです。羊飼いが先頭に立って、羊たちを背中で導くように主は背中を見せてくださいます。十字架にかけられた主イエスの姿こそわたしたちが従うべき神の後ろ姿です。モーセの願い、それは人間の普遍的な願いです。人間の主な目的はなんですか。人は神の栄光を讃え、永遠に神を喜ぶようになることです。しかし我々は、神に造られたその時の栄光を汚しました。神の栄光を表すことも神を喜ぶこともできなくなっています。イスラエルが、神から与えられた目標を見失ったように我々も本来の目標を見失っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いによって義とされます」(ローマ3章23)。罪の為に目標を見失ったわたしたちのため主イエスが道を開いてくださいました。わたしたちは、キリスト・イエスの中に人間として本来の意義を発見させられます。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネによる福音書1章14)。わたしたちには、まだ完全に神の栄光を見ることはゆるされていません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている、だがその時には、顔と顔を合わせて見ることになる。今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているように知ることになる。それゆえ、信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは愛である」(コリント一13章12~13)  

(説教者 堀地敦子)  

 「主は民と共に」


(出エジプト記33章12~17節、ヨハネの手紙一2章1~3節)

 イスラエルが金の子牛をつくったあの事件後、イスラエルの人々はホレブの山から出発しました。モーセは、宿営から遠く離れたところに天幕を張って主と語らっていました。それが、臨在の幕屋です。主に伺いをたてる者は皆、臨在の幕屋に行くようになっていました。そこで主はモーセと顔と顔を合わせ語っていました(11節)。「あなたはわたしに、『この民を導き上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者を、あなたは知らせてくださいません。…もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。」(12~13節)。モーセは主に尋ね求めています。
主よ、あなたがわたしと「共に遣わされる者」とは、一体どなたなのですか。そして、「主の道」を知りたいのです。それは、主を知りたいということです。主が、将来どのようにしてイスラエルと共に歩まれるのかを知りたいのです。
「この国民があなたの民であることも、目にお留めください」(13節)。モーセは、決して自分一人だけで主の約束の担い手になりたいのではありません。主がモーセの名を呼んだ日のことを思い出してください。あの日、燃える柴の前で、主はモーセの名を呼ばれました。その時モーセは、エジプトで殺人罪を犯し、逃亡していました。モーセは、イスラエルを助けようとして、エジプト人を殺したのです。とはいえ、殺人は、重罪です。逃亡中のモーセは、自分が何者なのかを隠し、それまでの自らの人生を否定して生きていました。そのモーセの名を、主は呼ばれた。彼を選んでイスラエルに遣わしてくださいました。神に名を呼ばれ、遣わされた。それがモーセの原点です。
民が金の子牛を作ったあの事件は、イスラエルの民にとっての躓きです。同時に、モーセに取っても挫折でした。民が勝手な振る舞いに走った。イスラエルが偶像を作り、それにひれ伏し拝んだ。民を導くものとして、モーセは責任や重圧を感じていたのかもしれません。だからこそモーセは自分一人でなく、イスラエルの民も共に祝福を受けたい。イスラエルと共に主の民として約束の地に向かうのでなければ、意味がありません。 このモーセの願いが、主を動かしました。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」(14節)。必要な答はここにあります。しかしモーセには、これが必要で十分な答だと分かりませんでした。シンプルな答えに満足出来ません。彼は食い下がります。  「もし、あなた御自身が一緒にいってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。」
 「一体何によってわたしとあなたの民に好意を示してくださることが分かるでしょうか。」本当に主は、これからもずっと、何時までもイスラエルと共に行ってくださるのか。主は、頑なな者たちを導いてくださるのか。これからもイスラエルに好意を持ってくださるのか。彼には確信が持てないのです。
主の好意を受けられなくなれば、それはイスラエルにとって一貫の終わりです。モーセが如何にリーダーシップを発揮しても主が共におられないなら無力です。「一体何によって、…好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上の全ての民と異なる特別なものとなるでしょう」。主の臨在だけが、イ選ばれた民の印です。主よ、あなたが共にいてくださればイスラエルは地上で唯一の特別な民に変えられるのです。主はこのモーセの願いを聞き入れてくださいました。エジプトの奴隷、誰にも顧みられない、安上がりの労働力に過ぎなかった民は、主の好意によって特別なものに変えられました。
主が語られたシンプルな答えに全てがある(14節)。第一に、主が民と共におられる。第二に、主が安息を与える約束です。主イエスの言葉を思い出します。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だからわたしに学びなさい、そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章27~32)。この内容は、主イエスが共にいる約束、安息を約束するものです。これは福音の言葉です。
しかし聖であり義である神がなぜ罪人と共にいて下さるのか。その根拠は、いったいどこにあるのでしょうか。「一体何によってわたしとあなたの民に好意を示してくださることが分かるでしょうか。」モーセは、神の好意を執拗に確認せずにいられません。モーセと同様に、罪人は神が共にいるといわれても信信じられないのです。罪人は、神と共には生きられない存在です。「わたしは,あなたがたの間にあって上ることはしない。途中であなた方を滅ぼしてしまうことがないためである。あなたは、かたくなな民である」(出エジプト33章3)。そういわれる通りです。
罪人は聖なる神の臨在に耐えられない。にもかかわらず罪人は、神なしに神なしに生きることもできません。神がおられなければ、罪はわたしたちを食いつくし、押しつぶすのです。罪から救われる為に、わたしたちには神が必要です。罪人は、神が必要なのに、神の臨在に耐えることができない。それがわたしたちの現実です。そういうわたしたちの為に、神は独り子を、世にお与えになりました。
罪人を救うため御子イエスは、人間となりました。主イエスの、御生涯は苦難の連続でした。苦難は、生涯の終わりに顕著になります。主イエスはその生涯の終わりに、われわれの罪を背負うために十字架にかけられたからです。主イエスが、十字架で苦しまれたのは、わたしたちの罪を負う為だったのに、わたしたちは知りませんでした。主イエスが、十字架につけられたのは、あの方が罪を犯したからだと思っていました。わたしたちの罪を取り除くため主が苦難を受けたのです。「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても御父のもとに弁護者、イエスキリストがおられる。…わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって神を知っていることが分かります」(ヨハネの手紙一2章1~3)。主イエスが、世の罪を取り除かれた。そこに、罪人が主と共に生きる根拠があるのです。御子は、わたしたちを招いています。主イエスのもとで、罪の重荷を降ろしなさい。そして、主イエスのくびきを負いなさい。罪は主イエスが背負って下さるから、わたしたちは、主のくびきを負い、主イエスの謙遜に学ぶ。それが罪人が主と共に生きる道です。
主は、神の民に安息を約束されました。この安息とはなんでしょう。約束の地カナンの土地に入ることでしょうか。いいえ、違います。「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。」(ヘブライ4章8)。神の与える安息の約束は、いまだ、成し遂げられていません。
「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたの内から出ないように、気を付けましょう。なぜなら、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです」(ヘブライ4章1~2)。主が共におられ、安息を与えるという福音。イスラエルも、わたしたちも、それを聞きました。福音に聞き、信じ、従う、旧約の時代も新約の時代もそこに変わりはありません。イスラエルの時から始まった信仰の旅路はまだ続いています。「今日、わたしたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」。出エジプトの第一世代は、かたくなになり、約束の地へ入れず砂漠で倒れたのです。倒れた第一世代のことは、わたしたちへの警告です。約束から取り残されることなく、安息にあずかるために、わたしたちは歩みます。われわれは今、永遠の安息を生き始めたばかりです。わたしたちは、主イエスが再びおいでになる日、約束の成就を待ち望みつつ、今を生きています。「互いに愛しあうなら、神はわたしたちの内に留まってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(ヨハネの手紙一3章12)。世の終わりまで主がわたしたちと共におられますよう祈ります。  

(説教者 堀地敦子)

「主と共に生きる」


(詩編49編8~10、16節、ローマ6章1~11節)

「それともあなたがたは知らないのですか?」(6章3節)。そう言ってパウロは、何か大切なことを忘れてはいないか? わたしたちクリスチャンには、決して見逃してはならないことがある。そう言って、洗礼の話を始めます。
ここにある言葉は、いわば、キリスト者と教会のアイデンティティです。いったいクリスチャンとは何者であるのか。教会とはいったい何なのか? 何でないのか、が御言葉として示されています。
あなたがたは知らないのですか? わたしたちは皆、キリスト・イエスの「中へ」と洗礼を授けられた。すなわち、キリストの「死の中へ」と洗礼の水の中に沈められた。そうして生まれてきたのが、わたしたちクリスチャンです。
洗礼に込められた第一の意味は、キリストの「死にあずかる」ためです。これまで神を知らず、神に敵対してきたわたしたち、罪を罪とも思わず生きてきた「古い自分」が、「キリストと共に」十字架につけられ、主と共に「死んで、葬られる」。古い自分に死ぬために、わたしたちは洗礼を受けたのです。
この意味で、洗礼式の日とは、神の子として新しく生まれる誕生日であると共に、わたしたち一人一人のお葬式の日です。罪に生きてきたかつてのわたしたちが、キリストの手によって十字架にかけられ、死んで葬られた日。かつて神を知らずにいた、このわたしのお葬式の日です。
キリストの死にあずかることによってのみ、わたしたちの古い自分は罪に対して死ぬことができます。わたし一人では、古い自分に死のうとしても、死ねない、死にきれないのです。かつての罪深い自分と決別するだけの勇気が、わたしにはありません。かりにあったとしても、自分で自分に死ぬ、自分で自分を殺すことなど、わたしたち罪人にはそもそもできません。 ただ罪とはまったく無縁のお方が、イエス・キリストが、わたしたちのため、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださいました。キリストだけが、罪もないのに、わたしたちの罪をすべて背負って、これを償い、罪に対して死ぬことができたのです。
わたしたちにできることは、わたしのために死んでくださったキリストを信じて、受け入れることです。それだけが、わたしたちに残されたチャンスです。このチャンスを神様は、ご自分が愛し選んだわたしたちのために、与えてくださいました。キリストと「共に」死んで、キリストと共に生きるチャンスを、信じる者にくださったのです。
このように、わたしたちが洗礼を受けたいと心から願うようになったのには、もう一つ大切な理由があります。それは、キリストの復活にあやかるためです。「キリストと共に葬られ、その死にあずかる」ことができたなら、「キリストが死者の中から復活させられたように」、「わたしたちも新しい命に生きる」(4節)。キリストと結ばれキリストの死の姿に「あやかる」ならば、まちがいなく、キリストのよみがえりの姿にも「あやかる」ことができる(5節)。このことを信じて、わたしたちは洗礼を受けました。キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。そうなれるよう、神は救い主キリストを世に送り、わたしたちのために主は、「罪の赦しを与える洗礼」を始めてくださったのです。
そもそも二千年も昔の、しかも日本から遠く離れたユダヤで起こったあの事件が、今ここにいるわたしと、どんな関わりがあるというのでしょう? 思えば不思議な話です。しかも、これまでのわたしの生き様や、今のわたし、これからのわたしに関わる。わたしの生き死に、キリストほど深くかかわってくださっているお方はいない。聖書は、まちがいなく、そう言っているのです。二千年前のキリスト、この方の死と復活は、いまここにいるわたしたちと、どれほど、どのように関わりがあるというのでしょう?
大いにかかわりがあります。それはキリストが、ご自分は罪もないのに、わたしたちに代わって、罪の裁きを十字架で神から受けてくださった。このことからしても、よくわかります。キリストは生まれながら永遠に神の子で、罪とは何らのかかわりも、責任もありません。(むしろ、罪にかかわってきたのも、罪に責任があるのも、それはわたしたち罪人の方です。)
しかしキリストは、罪人として生きるほかないわたしたちに、どこまでも関わってくださいました。魂が飢え渇き、救いを求める者に命の清水の言葉を与え、神の道を示しました。逆らう者、裏切る者たちにも正面から向き合い、救いの手を差し伸べることを止めませんでした。なにより十字架の上で、わたしたちの罪が赦されるよう執り成し祈ってくださいました。命がとられることを承知で、最後まで、神の国と神の義に生きて、われらの罪を背負って、死んでいかれました。 罪と死と滅び、神の裁きという、もっとも忌まわしいもの。本当ならわたしたちが背負うべきもの、しかしわたしたちには決して背負いきれない重荷をすべて、わたしたちに代わって引き受け、罪に対して死んでいかれました。 すべてはわたしたちが救われるため、わたしたちが古きに死んで、新しい命に生かされるためです。この神の愛を信じ、受けいれるとき、この方への愛と信仰に生きていきたい。心からそう願わずにいられなくなりました。 そうして、キリストを信じるようになり、ついに洗礼を受けると、不思議なことが、わたしたちの体と魂に起こりました。「キリストと共に死んで葬られる」。自分の罪にさえ死ねなかったこのわたしを、キリストが引き受け、背負って、葬り去ってくださる。このことが確かに、わが身に起こっている。そのことを知りました。弱くて醜くて、卑怯で、自分でも自分をゆるせない。しかし自分をどうすることもできないこの私は、あの方に背負われている。もっと前から、わたしはあの方に背負われてきたのか? 実際、まちがいなくあの方はわたしたちを背負ってきてくださいました。そして、洗礼を受けたその瞬間、キリストの温かい背中に背負われて、キリストの手で、この方と共に古い自分が葬られていきます。事実、主は、罪に生きたわたしたちを背負って、陰府にまで降られたのです。 そして次の瞬間、主によって葬られたこの私が、同じ主の背中におぶわれたまま、新しい命の産声を上げている。その自分を発見します。「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(8節)。これらはすべて、神の約束に基づいています。主が約束された通りのことが、今そしてこれからも、わたしたちを襲うのです
「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く とこしえに、払い終えることはない」。
「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」
「しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から(このわたしを)取り上げてくださる」(詩編49編16)。
十字架で死んで葬られたキリストが、よみがえって、天に昇り、神の右にいて、今もわたしたちを、陰府の手から取り上げていてくださいます。そういう仕方で、主は今もわたしたちと共に歩んでくださっています。すべてを、神様が成し遂げられました。 キリストを信じて洗礼を受けたその瞬間から、わたしたちはキリストと一つにされています。キリストと一つにされているからこそ、キリストの身に起こったすべてのことが、わたしたち自身の出来事となりました。すなわち、キリストの死の姿に似たものとなり、主のよみがえりの姿に等しくされるのです。二千年という時の隔たり、場所の隔たりを超えて、主は働かれます。聖霊なる神が、主キリストとわたしたちを一つにしてくださいました。キリストという根にわたしたちは接ぎ木されています。神の全能の働きのゆえに、これからの日々を、キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命を生きていけるようになりました。
キリストが与える新しい命とは、尽きることのない永遠の命、神の子どもとされて、主キリストと共にとこしえを生きる、恵みの命です。
罪も死も、もはやキリストを支配しません。わたしたちが信じあがめるべき主は、イエス・キリストただおひとりです。ご自身の死によって罪と死を滅ぼし、復活の初穂となられたイエス・キリスト。勝利の主キリストに信じ従う者は、罪から解放されています。死すべき定めから解放され、神が賜る命の新しさを、日々、生き始めています。十字架と復活の主により新しくされたわたしたちの命、全存在を、キリストを通し、主なる神に献げましょう。主を愛し、主の御言葉によく仕え。再び罪の奴隷にならないように、主よ、われらを助け、守り、導いてください。
われらの主イエス・キリストが、かつてそして今も、天の父の栄光のために生きておられるように。主よ、わたしたちを罪から清めて、あなたのために生きる者とならせてください。聖霊によって、いよいよ深く、キリストと共に死に、キリストと共に新しく生きる者となれますよう。罪の道、不信仰な道へと逆戻りすることなく、主が開かれた新しい命の道をとこしえに、あなたと共に歩ませてください。 祈りましょう。  

(説教者:堀地正弘牧師)