2018年  礼拝説教

「主の臨在」


(出エジプト記40章34~38節、コリントの信徒への手紙二5章1~10節)

  何時の時代にも、移民や難民の問題はあります。災害、戦争、政情不安等、様々な理由で人々は住み慣れた故郷を離れ見知らぬ故郷を出てゆかざるを得ないのです。
イスラエルは、飢饉のためにエジプトに移住を余儀なくされました。エジプトは、はじめのうちこそ、イスラエルに寛大な姿勢を見せます。しかし、そこは神を知らぬものたちの世界です。神なき世は、困窮する人々にいつまでも優しくありません。次第にイスラエルはエジプトで奴隷化されます。民の生活は、重労働に脅かされ、滅亡の危機にさらされていました。エジプト人たちは、イスラエルを嫌悪しつつ、安価な労働力として彼らを便利に使っていました。
主は、モーセを遣わしてイスラエルを奴隷の国エジプト人たちの手からから民を救い、契約を結ばれました。「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間山を覆った。…主の栄光はイスラエルの人々の目には燃える火のように見えた」(出エジプト24章15~18)。主の雲と栄光が満ちたシナイ、そこで主はイスラエルと共にいる契約を結ばれたのです。主はモーセに、幕屋を建造するための準備を指示してこられました。契約の箱、机、燭台、幕屋を覆う幕、幕屋の壁板や至聖所の垂れ幕などが造られそれらを用いて、モーセは、主が命じられたとおりに幕屋を建て、幕屋と祭壇の周囲に主の庭が設けられ入り口に幕が掛けられました。
34:「雲が臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」主の栄光が輝き、モーセは臨在の幕屋に入ることができませんでした。神は、御自分の名を置くためにエジプトのような大国をお選びにはなりませんでした。荒れ野に生きるイスラエル、かつて人々に蔑まれた奴隷たちの群れの中に、御自分の名をおいて下さったのです。
36~38「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで出発しなかった。昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」。主の雲と火が昼と夜と交互に現れました。主の雲が、幕屋から昇って行くと、イスラエルは進んでゆきます。留まるか前進か、それを決めるのはモーセでも民でもなく主です。主を無視して前に進んでも、成功することはありません。主はイスラエルを荒れ野での危険な旅の中で守り導いきました。荒れ野を旅するイスラエルには、いつも主が臨在される幕屋がありそこがイスラエルの中心だったのです。しかし、イスラエルは主を中心にすることを喜んでいませんでした。彼らは度々、エジプトの奴隷の生活をなつかしがりました。「主がわれわれを導き出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか」。主に救われたことを恨んでいるように聞こえます。荒れ野の40年の旅路の途上、不平を言った者たちは倒れてゆきました。約束の地に入り、主は神殿に御自分の名を置きます。しかし、主がその名をおかれるとい誓われた神殿に、異教の偶像がたてられ、主と偶像が並べられた礼拝が行われるようになったのです。主は幾度も預言者を使わしてイスラエルを諫めました。しかしイスラエルの頑なで、預言者たちを迫害し殺したのです。イスラエルの不信仰が止まなかったために、主はその名を置かれた神殿をバビロンの手に渡したのです。イスラエルは中心を失ったのです。
われわれの世界は、中心となるべきものを持てない世界です。唯一の真の神を知らない世界では、人々は一体何を頼りにするのでしょうか。それぞれが、自分好みの神や自分自身を神として生きようとしています。神よりも、強い指導者たちが求められる時代です。強硬で独裁的な現代のファラオのような指導者たちが次々と現れて、世論も彼らを後押ししているように見えます
科学技術や軍事力、経済力や人間力が信じられています。神の存在を漠然と信じている人々でも、神は遠いところにおられて、この世の悪に対して何も出来ない方だと思われています。今は人間の目を恐れる時代です。自分が他の人にどう見られているのか気になってしかたない。ネットで自分の悪口が拡散されることを、大人も子供も恐れています。将来への不安も拡がって、消耗する人がますます拡がっています。イスラエルは神殿を失い、現代の人々は人を恐れて不安にかられています。主は、わたしたちと共におられないのでしょうか。
 旅するイスラエルと共におられた主は、人となられてわたしたちの間に宿られました。主は、貧しい人々、罪人と呼ばれた人々の友となりました。主は弟子たちと共におられ、共に食事をし、神の国について教え導きます。イエスは弟子たちを旅の途上で真の信仰へと導いてゆかれました。「あなたがたはわたしを何ものだというのか」主イエスこそ約束されたメシアであり世の罪を償い罪人たちを救う方です。「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた」(マルコ10章32)。神は主イエスを通して人々を共にあろうとしました。人々は、主イエスを認めずに十字架につけてしまったのです。神は、わたしたちが殺したイエスを復活させました。主イエスを信じる者が一人も滅びず永遠の命を受けるためです。主を見捨て十字架につけたわたしたちなのに、神は見捨てなかったのです。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20)。神は、終わりの日までわれらと共におられます。主は旧約の時代、幕屋を通してわれわれと共におられました。そして、今は人となられたイエス・キリスト、キリストの御体なる教会に於いて、何時もわたしたちと共におられるのです。

(説教者 堀地敦子)

「キリストにあずかる」


(列王記下21章1~9、コリントの信徒への手紙一10章14~22)

「わたしの愛する人たち、こういうわけで…偶像礼拝を避けなさい」(14節)。 かつてイスラエルは、自ら偶像をつくり、真の神から離れていきました。彼らの罪と背きは決して過去のものではなく、今を生きるわたしたち教会にとっても、大きな戒めです。かつての出エジプトを思い起こして、教会の人びとにパウロは警告します。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはでき」ない。「主の食卓と悪霊の食卓に」同時に着くことはできないのです、と。真の神を信じているといいながら、同時に偶像の神に心を寄せているとしたら、主の怒りをまねきかねない。だから「わたしの愛する人たち…偶像礼拝を避けなさい」。
厳しい戒めを、「愛をこめて」パウロは語ります。教会を愛し、わたしたちを救いに招いてくださった神。イエス・キリストを心から愛するからこそ。主が集めてくださったわたしたち一人ひとりのことを思って、パウロは今、不信仰に陥ることからわたしたちを守ろうと、あえて厳しい言葉を口にしています。
そこでパウロは言います。「偶像礼拝を避けなさい」。「避けなさい」とあるのはもともと、「避けて逃れなさい」、「逃げなさい」という言葉です。信仰というと、ついわれわれは、試練に「立ち向かう」とか、苦しみから「逃げてはならない」、信仰者なのだから、というふうに思いがちです。ところがここでは、偶像とその礼拝から「逃れなさい」。罪の誘惑から、「逃げなさい」と勧められています。
信仰者であっても、「逃げて」よいのです。逃れるべきときが必ずあります。信仰の戦いをしなくてよい、とか、努力などいらない、と言っているのではありません。たとえば、祈れないとき、礼拝に行きたくない気持ちのとき、そのような気持ちと戦う必要があります。その一方で、ここで言われているように、どれほどの信仰者であっても、自分一人では戦えない。自分の力では必ず打ち負かされてしまうような、罪との闘いがあります。そのようなとき、自分を過信してはなりません。自分ひとりで戦ってはならないのです。
ここで言われているのは、罪の力と誘惑に襲われたときに、どう戦ったらよいのか。信仰の「戦い方」が示されています。「逃げる」といっても、ただ「逃げ出す」のではありません。「どこに」、「だれのもとに」逃れていくかが大切です。罪の誘惑にさらされたとき、どこに逃げていくべきでしょうか? イエス・キリストです。キリストのもとに逃げていき、この方から離れない。キリストに身を寄せて、どのようなときも、この方に守っていただくのです。だからパウロはすでに、こう語っています。13節「神は…試練と共に…逃れる道をも備えていてくださいます」。神が逃れの道として与えてくださった方こそ、イエス・キリストです。
前回みてきましたように、この手紙の10章では、洗礼と聖餐の恵みが、かつての出エジプトの出来事になぞらえて語られてきました。ここでも、主の食卓(聖餐)のことが、偶像礼拝と対比されてでてきます。真の神に仕えるのか、それとも偶像に仕えていくのか。これは、われわれが思っている以上に、深刻な事態だといえます。かつて神によって選ばれたイスラエルですら、荒野の試練の中で、真の神を捨てて、自分たちで勝手に偶像を作り上げ、荒野の中を進もうとしました。出エジプトの時だけではありません。その後、約束の土地に導かれたイスラエルは、やがてダビデ王、ソロモン王の頃に王国として栄え、絶頂期を迎えます。ところがまもなく、イスラエルの国に、偶像礼拝がはびこります。今日読まれた列王記下21章は、南のユダ王国の終わりに近い頃の話です。信じがたいことですが、神を礼拝するために建てられた神殿の中に、真の神を礼拝する祭壇と並べて、偶像の神々が安置されていた。偶像に犠牲をささげる祭壇があったと記録されています。ありえないほどの不信仰が、神の民であるはずのイスラエルのただなかで起こりました。 それゆえわれわれ教会もまた、自分自身、自分たちを過信してはならないのです。自分たちはきちんと教会生活、信仰生活を送ってきた。もし本当にそうであれば、その人たちは決して自分自身を誇ったりはしません。「すべては主の恵みです」と、神を誇り、主キリストにこそ栄光を帰すでしょう。ほんのわずかでも、自分と自分たちを誇っているとしたら、それがすでに偶像礼拝のとりことなっている証です。なぜなら偶像礼拝とは、真の真実な神を忘れ、捨てて、真の神以外の何かによりどころを置くことだからです。
洗礼を受けてクリスチャンになったあとも、神社・仏閣でお参りを続けているとか、単にそういう生活スタイルのことが言われているのではありません。かつての宗教生活と縁を切り、教会一本で歩んでいたとしても、もし心の中で、キリスト以外の何かによりどころを置いているなら、それはもう立派な偶像礼拝なのです。たとえば、自分の中にある知恵とか力、ある種の一生懸命さ、といったものに頼るなら。究極の偶像礼拝とは、神と並べて、自分自身をあがめることだからです。自分の思い、考え、こだわり、主義主張など、自分自身を神とそのみ言葉よりも優先しようとするなら、それはすでに偶像礼拝のとりこです。
この手紙をパウロが書き送ったコリント教会の人びとも、そうでした。キリストを信じていながら、神に頼るよりも、自分たちのことを誇っていました。偶像礼拝は、単にキリストが来られるより前の、信仰が劣るであろう旧約の民に限ったことではないのです。「あのひとたちは、自分たちより信仰が劣る」などという見方自体、聖書をまったく理解していません。かつてのイスラエルも、二千年前のコリントの信徒たちも、わたしたちとまったく変わらない人間。信仰者にして罪に迷う者たちそのものです。
どれほど優れた信仰者また教会であっても、罪の誘惑と偶像礼拝の前に、わたしたちは無力です。だから、「この罪の誘惑から、逃げなさい」。パウロが語るとおり、救い主イエス・キリストのところに、わたしたちも逃げていくべきです。自らの罪や弱さを正直に認めて、砦の塔であるキリストのもとに逃れる。キリストにこそ望みをおいているからです。そういう勇気を持ちたいと思います。キリストをキリストと認める一番の勇気を、いさぎよい信仰を、主よ、われらにお与えください。そう祈っていきたいのです。
パウロの言うとおり、そもそも偶像の神々など存在しません。実体がありません。それなら、実体・実態のない偶像をどう扱おうが、大したことはないのでしょうか? いいえ、実体のない偽りの存在によりどころを置いたり、望みをかけることほど、むなしく、恐ろしいことはありません。たとえば、被害妄想という言葉があります。実際には、みんな、あなたのことを大切に思っているのです。ところが、疑いと迷いに支配されると、みんな自分の敵だと思い込んでしまう。実態のない疑いや迷いが、どれほどその人自身やまわりを不幸にするでしょうか? 実体のない偶像に心奪われていくときおこる悲劇とは、そうしたものです。実体のない恐れ、不安、あらゆる疑いが、わたしたちを駄目にしていきます。
これに対し、主キリストがわたしたちを招いてくださっている世界は、なんと対照的でしょう。なぜならキリストは、最後の晩餐のとき、言われたからです。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である」。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血…」(ルカ22章19~20)。
弟子たち一人残らず裏切るのを、主はよくご存じでした。でありながら、数時間後には自分を見捨てていく弟子たちのために、主は十字架にかかり、彼らの罪を背負って死んでいかれます。その決意を、このときすでに主は固めておられました。主が弟子たちを招かれた食卓は、自分の罪など何も気づかずにいる弟子たちのために、ご自身を喜んで献げていく。その方による食卓です。ご自分の思いを捨てて、ただ神の栄光のために、父なる神の御心に忠実に、そしてわたしたち罪びとを救うために。そのために献げたご自分の命を、信じる者たちに分かち与える、そのような食卓だったのです。
それゆえ、キリストを神の独り子と信じ、わたしたちの救い主と受け入れる者たちにとって、キリストの食卓は、キリストご自身にあずかる食卓となります。今もわたしたちが招かれている聖餐の食事は、単に、キリストを表すパンと杯を受けているだけにとどまりません。礼拝の中で、聖霊の導きにより、み言葉と共に聖餐によって、キリストご自身にあずかっています。そうして主によって生み出されたのが、わたしたち教会なのです キリストだけを頼みとし、キリストに望みを置く。この方だけを頼りにするなら、キリストは喜んで、わたしたちの力強い避け所となってくださいます。「主はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」(詩編46編2)。
キリストに身を寄せるなら、わたしたちは、この方によって一つです。どれほど大勢でも少数でも、キリストにあずかるなら、わたしたちはすでにキリストと一つなのです。「みなが、キリストという一つのパンを分けて食べるからです」(17節)。 古いわたしたちの中に住み着いている偶像を、主キリストがその十字架によって打ち壊してくださいますように。これからも主キリストにあずかって、新しいわたし、わたしたちにしていただけますように。キリストと共に生きる教会の道が、今、新たに始まろうとしています。その出発点は、主の食卓にあずかることです。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「聖なるものとなる」


(出エジプト記40章1~16節、ヘブライ人への手紙9章11~14節)

信仰生活において礼拝の場が常に与えられていることは非常に大切なことです。幕屋とは荒れ野のイスラエルの大切な礼拝の場です。主はモーセに、幕屋を建造するための準備を指示してこられました。まず、幕屋を建てるために民から受け取るものを主は指示しました。「彼ら(民)から受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、青紫緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシア材、ともし火のための油、聖別ための油と香草の香とに用いる種々の香料…ラピスラズリやその他の宝石類」(出エジプト25章3~7、同35章5~9)。それらを用いて、契約の箱、机、燭台、幕屋を覆う幕、幕屋の壁板や至聖所の垂れ幕などが造るように主は命じました。
 「あなたは、そこに掟の箱を置き、垂れ幕をかけて箱を隔て、机を運び入れ、その付属品を並べ、燭台を運び入れてともし火をともす。更に掟の箱の前に香をたく金の祭壇を置き、幕屋の入り口には幕を掛ける。また、焼き尽くす献げ物の祭壇を幕屋、つまり臨在の幕屋の入り口に据え、洗盤を臨在の幕屋の入り口の前に据え、洗盤を臨在の幕屋と祭壇の間に据え、これに水を入れる。周囲には庭を設け、庭の入り口には幕を掛けなさい」主はモーセに幕屋をどのように配置して建てるべきかを指示しました。モーセは、主が命じられたとおりに幕屋を建てました。
 主はモーセに、聖別の指示をしました。「あなたは聖別の油を取って、聖別しなさい。幕屋とその中にあるもの全ての祭具に。それは聖なるものとなる。焼き尽くす献げ物の祭壇と全ての祭具、祭壇を聖別する…」。アロンとその息子達の聖別、清めのことを指示なさっています。「アロンとその子らを臨在の幕屋の入り口に進ませ、彼らを水で清めなさい。アロンに祭服を着せ、彼に油を注いで祭司としてわたしに仕えさせ彼の子らを前に進ませこれに衣服を着せる。…彼らにも油を注ぎわたしに仕える祭司としなさい。…油を注がれることによって、祭司職は代々にわたり永遠に受け継がれる」。モーセは、全て主が命じたように行いました。幕屋と祭司たちが聖別されたのは、単に清めた礼拝所で礼拝せよということではありません。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(ペトロ一2章9)。神の民とは、主がこの世から選び聖別されたものたちだからです。わたしたちもキリストにあって聖別された民としてここで礼拝を献げているのです。「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して造りなさい」(出25章40;「山で示された方式に従って幕屋を造りなさい」同26章30等)。
主は、モーセに告げられました。2節「第一の月の一日に幕屋すなわち臨在の幕屋を建てなさい。」。主は、幕屋建設の開始をすべき時についても指示しました。それは、第一の月の一日です。主が命じられたとおりモーセは、「第二年の第一の月に」(17節)幕屋建設を開始しました。この第一の月とは、最初の過ぎ越があった日、イスラエルがエジプトを出てきた月です。主はエジプトに属する初子は人間も家畜も打たれました。一方、イスラエルに属する物は、人間も家畜も初子を打たれることはありませんでした。主の命じたように小羊の血を家の門に塗ったからです。この事件によってイスラエルは、奴隷の国のエジプトを出てきたのです。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(出エジプト12章2)。主に導き出され民が新しい始まりの日です。
第一の月の最初の日、モーセは主に命じられたことを実行しました(17~33節)。「モーセはまず台座を置き、壁板を立て、…幕屋を組み立てた。…主がモーセに命じられたとおりであった」(19節、21、23、25、27、29、31節)。「主がモーセに命じられたとおりであった」この言葉が7回繰り返されています。これは、神が七日で天地を創造された物語を思わせます。神が光あれといわれ、光と闇、昼と夜を分けると、世界は神の言葉の通りになっていった。主が語り、その通りに世界は建てられていきました。
「わたしのための聖なるところを彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に従って、幕屋とその全ての祭具を造りなさい」(出エジプト25章8~9節)。幕屋は、神が我々の間に宿るために造られたものでした。
神がイスラエルと共にあることを望んだのに、イスラエルの方は…。イスラエルは金の雄牛の像を建てました。エジプトで慣れ親しんだ豊穣をもたらす神々、エジプトの生活に未練があったのです。その後も、イスラエルは荒れ野でエジプトへの未練を繰り返し口にしてきました。わたしたちも彼らとなんら違いはありません。我々も神と共にあることを喜んでいませんでした。主はわたしたちと共にいようとしたのに、わたしたちはそれを良しとはしなかったのです。
古い契約のもとでの礼拝、様々な清めの儀式、その目的は罪を除去し「良心を完全にする」ことでした。実際には、外面的な効果しかなかったのです。神の御心に従うよりも罪人だった頃のように自分の好きに生きていたい。われわれの心はいつも迷っています。先祖のアダムとエバの時から人間は神と共にいることを喜んでこなかったのです。神の命令に背いてでも、善と悪を知る知識の木の実を食べた。もっと賢くなり、神のような存在になって、世界を手に入れて、全てを思い通りにできると思ったからです。人間が全世界を思うがままにしたらどれほど悲惨なことでしょう。地球の環境破壊が進み、環境破壊のせいで絶滅した生物、現在絶滅が危惧される生物たちがどれほど多いでしょう。人間同士の戦争・紛争もなくならない。もしも、神が世界を見捨てられたら、たちまち世界は自滅していくでしょう。神は、罪人たちをご自分が造られた世を見捨てることはしませんでした。「言は、肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ福音書1章14)。神の独り子イエスが、人となられて、神自らがわれわれの間に宿られたのです。けれども、われわれは御子を受け入れなかったのです。ナザレのイエスという方が、神の子であるはずはないと思ったのです。「この神殿を壊して見よ、三日で建て直してみせる」主イエスの言葉は、人々の敵意を呷り、それゆえ主は十字架へ追いやられたのです。人々は思いました。神の子だと言っていたが何もできなかったと。しかし、主の十字架の死によってわたしたちの罪の償いが完全に成し遂げられたのです。主イエスの言われた神殿とは、ご自身の体のことです。三日で立て直すとは、復活のことです。主イエスの言葉どおり、主は復活され、今神の右におられます。
神がわたしたちと共にいる幕屋それはどこにあるのでしょう。主は天におられ、わたしたちは今も地上にいます。この世は、いまだに神に逆らい、人と人は互いに憎しみの隔てを作っています。死に打ち勝つ力はこの世にはありません。
しかし主イエスによって、敵意の隔ても憎しみや争いもない、もはや死がすべてではない世界がキリストによって始められたのです。それは、いまはまだ完成されていません。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み人は神の民となる。彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21章3~4)。主が再びこの地上に来られるとき、神と人が共に生きる世界、真の幕屋が完成するでしょう。  

(説教者 堀地敦子)

「海の中を通って」


(出エジプト記14章26~31節、コリント一10章1~13節)

いうまでもなく新約聖書は、イエス・キリストを信じる教会・わたしたちにとって、救いをもたらす神の言葉です。同時に、旧約聖書もまた、救い主キリストを迎えるために準備された、神による救いの歴史の物語そのものです。ですから、旧約と新約を合わせて「聖書」と呼びます。われわれ人類を救いに導く、神の啓示の言葉として、教会は旧新約聖書により、信仰を導かれてきました。
コリントの信徒への手紙一10章で、パウロは、旧約聖書の中でもとりわけ、神の民イスラエルにとって忘れることのできない、出エジプトの出来事を振り返ります。そこからイエス・キリストによる救いを語ります。 430年エジプトの国で奴隷の生活を強いられたイスラエルを、主なる神は深く憐み、心を寄せました。天から降って来て、モーセを遣わし、ご自身の力強い御腕によってイスラエルを救い出されました。奴隷の苦しみから彼らを解放し、神のみを礼拝する民とするため。先祖アブラハムに誓われた誓いを果たし、乳と蜜の流れる約束の土地に、彼らを導き昇るためです。こうして神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民とされました。
今に至るまで、最も偉大な救いとして、ユダヤの人びとの心に刻まれているのが、出エジプトの出来事です。ユダヤ人に生まれたパウロもまた、父母や先祖たちから、自分たちがいかに神に愛され救われてきたかを、この物語を通して、信じ受け止めていたと思います。そのパウロが、キリスト者となって、出エジプトの出来事を振り返ろうとしたとき、とても不思議な語り方をします。10章1節「…わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海の中を通り抜け…雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を」授けられた。 洗礼は、復活の主がお命じになったものですが。キリストが「罪の赦しの洗礼」をお命じになる前にも、ユダヤ教の中に洗礼の前ぶれがありました。ヨルダン川でバプテスマのヨハネによって行われていた、「罪の悔い改めの洗礼」もその一つです。ヨハネの洗礼は川の中で全身を水に浸し、神への悔い改めを表す儀式でした。けれどもこれは、キリストが生まれるしばらく前のことです。キリストより二千年以上も前のモーセの時代に、洗礼など存在しません。ただ割礼があっただけです。それなのに、どうしてパウロは、当時存在すらしない「洗礼」という言い方をするのでしょう? 出エジプトを遂げたかつてのイスラエルの姿に、今、イエス・キリストによって世から贖い出された教会、自分たちの姿を重ね合わせているのです。
出エジプト記に出てくる預言者モーセは、やがて世の終わりに来られる救い主イエス・キリストを、あらかじめ指し示していました。モーセにまさる預言者、救い主が現れるとの約束を、ユダヤの人びとを信じ待ち望んでいました。この約束が、キリストのお生まれによって実現されたのです。かつての出エジプトをはるかにまさる新しい出エジプトが、今や、イエス・キリストの手によって起こっています。キリストの十字架によって、罪の奴隷からわたしたちは解放され、贖われて神の民とされました。新しいイスラエル、教会の誕生です。 エジプトを出てまもなく、イスラエルは、紅海という海のほとりに導かれました。イスラエルの目の前には、大海原が横たわっています。しばらくするとエジプトの大軍が、イスラエルを連れ戻そうと、すぐ後ろまで迫っています。目の前は紅海の海、後ろにはエジプトの大軍、前に進むことも後ろに退くこともできません。前門の虎、後門の狼。このとき主なる神は、モーセに命じました。「あなたの杖を海の上に高く掲げよ」。すると目の前の海の水が左右に分かれ、乾いた道がイスラエルの目の前に現れました。モーセとイスラエルは、神が開いた海の中の道を通って、向こう岸にたどり着くことができました。一人も滅びることなく、です。やがてイスラエルの最後の一人が渡り終えると、左右に分かれていた海の水が、元に戻ります。このためイスラエルを追いかけてきた、世界最強のエジプト軍は海の藻屑と消え去りました。 この紅海の奇跡を指して、パウロは、イスラエルの民は皆、「海の中で」「モーセに属する洗礼を授けられた」と言っています。パウロが言おうとしているのは、かつて神の民イスラエルが、紅海の海の中を通って出エジプトを遂げた。それと同じように、いえ、はるかにまさる仕方で、今わたしたちはイエス・キリストによって罪の奴隷から贖い出され、闇の支配と決別してきた。海の「水の中」で、キリストに属するための洗礼を受けて、キリストに率いられ、約束された神の国に向けて出発した者たち。それがわたしたち教会だ、と言っているのです。 その証拠に、ここでは洗礼だけでなく、霊的な食べ物・飲み物のことが、すぐ出てきます。紅海を渡り切ったイスラエルは、40年の間、荒野・砂漠の道を、神を信じ忍耐しながら歩みます。食べ物も飲み水も乏しい、とても厳しい道です。けれども出エジプト記や民数記によれば、砂漠の40年間、主なる神は、食べ物(マナとうずら)をイスラエルのために毎日降らせ、彼らを養い続けました。また、岩から清水をあふれさせ、過酷な砂漠の中でも、飢えることなく渇くことのないように、出エジプトの神は、責任をもってその民イスラエルを養い、約束の土地へと導かれました。
イエス・キリストを信じて洗礼を授けられたわたしたちは、砂漠のあの食べ物・飲み物にまさる、霊的な食べ物・飲み物を、イエス・キリストの手から受け取っています。聖餐のパンと杯です。罪の支配からわたしたちを自由にするため、罪のないキリストが十字架にかかりました。わたしたちの罪のため、わたしたちに代わって、肉を裂き血を流し、ご自身、命のパン・命の水となって、わたしたちにご自分を与え尽くされました。わたしたち罪びとを、救い生かし養うためです。
パウロは、イエス・キリストという光のもとで、旧約聖書の出来事を、福音を指し示すものとして、新たに語り継ごうとしました。そのため、きわめて大胆な仕方で、出エジプトの奇跡を、イエス・キリストの救いの御業をあらかじめ指し示した物語として、語り直したのです。 パウロが宣べ伝えたとおり、教会は、主イエス・キリストによって新しい出エジプトを遂げた信仰の共同体、主に養われる羊の群れです。み言葉と洗礼と聖餐によって、これからもわたしたちは、イエス・キリストによってのみ養われていきます。キリストに属するもの、キリストのものとして生き続けます。
そこで、今朝、コリント一10章の御言葉から、このことを心に留めたいのです。モーセに属するための洗礼を、かつてイスラエルは、海の中・水の中を通って受けました。紅海の奇跡を経験したあとも、荒野の40年を、主に率いられて旅を続けました。 信仰は、「続ける」ことが大切です。「海の中を通って」とあるように、信仰には継続が欠かせません。洗礼は信仰のスタートであり、生涯に一回限りです。何回も受けるものではありません。でも、キリストによって水と血を注がれ、洗礼を受けてスタートした信仰・救いの道は、洗礼を受けたのちもずうっと続きます。海の中の道、水の道を「通り抜けて」という言い方から、信仰をもって歩み続ける。最後のゴールまで、キリストの跡に従い、歩み通すことが大切なのです。
いくら信仰に燃えた瞬間があったとしても、そのあと途絶えてしまったのでは意味がありません。キリストを信じて救いの道を歩み始めたならば、海の中の乾いた道を、向こう岸まで「通り抜けて」いかなければなりません。さらに、向こう岸に着いた後も、荒野の旅が待ち受けています。そこには確かに、苦しみがあります。困難が続きます。迷いが生まれるかもしれません。へこたれそうになる、あきらめたくなるときもあるでしょう。それでもこの道は、キリストが十字架にかかり血を流して、わたしたちを救いに招いてくださり、わたしたちの歩みを始めさせてくださったのです。そうであれば、自分勝手に、信仰の歩みを止めたり、元来た道を逆戻りすることはできません。自分の歩んだ道を、いえキリストの尊い犠牲を無駄にしてよいのでしょうか?
しかし、同じコリントの信徒への手紙一15章で、パウロはこう言っています。「わたしに与えられた神の恵みは(決して)無駄にならず」、「神の恵みによって今のわたしがあります」(15章10節)。そう断言しました。
わたしたちはあまりに罪深く不信仰です。すべてを無駄にしかねません。それほどまで罪の力は強く、誘惑は大きいのです。かつてのイスラエルも、荒野で反逆と不信仰の限りを尽くしました。もし信仰が行いによるのであれば、イスラエルも、わたしたちも、決して救われません。救いを無駄にしかねない。それほど罪深く弱い者たちなのです。だからまちがっても、自分の信仰心とか自分の強さに頼ってはなりません。自分を過信してはいけないのです。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(10章12)と、パウロが言っている通りです。
しかしそのパウロが続けて、こう語ります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。…試練と共に、…耐えられるよう逃れる道をも備えていてくださいます」(13節)。 われわれの弱さ・不信仰にもかかわらず、神の恵みが尽きることは決してありません。金の子牛事件をおこしたイスラエルを、一度は滅ぼすと、神はおっしゃいました。しかしイスラエルの罪を必死に執り成すモーセの祈りを、主は聞き届けてくださいました。福音書で、キリストを見捨てて逃げ出した弟子たち、罪の誘惑にあまりにも弱いこのわたしを、救い主イエス・キリストが神に執り成し、わたしの罪を背負ってくださっています。キリストによって贖われ、キリストの執り成しによって、なお神の前に立つことをゆるされている。それこそが教会であり、わたしたちはその群れの一人一人です。だから教会は、常に主を賛美し、キリストに感謝して、喜んで従うのです。
キリストの赦しの恵みに生きましょう。キリストを通してあらわされた神の恵みを、日々、食べて飲んで、噛みしめて生きる。御言葉と洗礼・聖餐に養われるとは、そうやって、与えられた救いの道を歩み続けることです。 主の救いの恵みの中に、すでに入れられているのです。不信仰のため、荒野で再び倒れて滅びることのないように。逃れの道、ただ一つの逃れの道である、イエス・キリストのもとに身を寄せましょう。  

(説教者 堀地正弘)  

「栄光から栄光へ」


(出エジプト記34章29~35節、コリントの信徒への手紙二3章12~18節)

出エジプトという出来事を通してイスラエルは、主の栄光を見てきました。 エジプトを出てきて、三月目にイスラエルが初めてシナイ山に来ました。そのとき主は、自ら降って来られて民の前にご自身を現されました。モーセが民を神に会わせるため宿営から連れだし、民は山のふもとに立ちました。その時、民は畏れた。「雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み角笛の音が鋭く鳴り響いた。…シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。…モーセが語りかけると主は雷鳴を持って答えられた。」(出エジプト19章16~19)。見たこともない自然現象、その中に現れた神の栄光はあらわれました。そのため民は恐れおののきました。「あなたがわたしたちに(主の言葉を)語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないとわたしたちは死んでしまいます」(出エジプト20章19)。主は、このような仕方で人々に御自身を現したのは。人々の心を試すためであり、神を畏れる心を与えて罪を犯させないようにするためでした(出エジプト20章20)。神の言葉は、モーセが民を代表して聞くことになりました。
しかし、モーセがシナイ山に昇り、主の契約の言葉を聞いている間に、人々は主を畏れることを忘れてしまいました。金の雄牛の像を造ったのです。主自ら契約を書き記した板を携え戻ってきたモーセが、目にしたのは、民が金の雄牛の像を囲んで歌い踊る有様でした。モーセの顔は、怒りのために上気していました。契約の板を岩に投げつけられて砕かれたのです。
このまま主がイスラエルとの契約を永久に破棄なさったとしても当然でした。しかし主は再びイスラエルに契約の言葉を与えました。モーセを再びシナイ山に呼び出して、十の戒めをしるした契約の板を与えました。
二板の契約の板を携え、モーセはシナイ山からイスラエルの民の宿営に戻ってきました。神と語っている間にモーセの顔は光を放つようになっていたのです。ただモーセは、自分の身に起こった変化に気づいていませんでした。
30:アロンとイスラエルの民は皆、モーセを見て、その顔の肌が光っていたのを見たのです。人々は、恐れてモーセに近づくことができませんでした。主が初めてシナイ山で、稲妻と火の中から人々に語りかけた主をおそれました。その時と同じように人々はモーセの顔に現れた主の栄光の輝きを見つめ続けることができなかったのです。 31~33:モーセが人々を呼んだので、アロンやイスラエルの指導者たちも皆、彼の近くに戻ってきました。モーセは、シナイ山で主が命じられたことを全て人々に伝えました。主イエスが弟子たちを世に遣わされるときこう言いました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28章20)。主イエスの宣教の姿勢は、旧約のモーセの中にすでに見らえるのです。
主の戒めと掟の言葉を、伝えている間、彼の顔は輝き続けていました。モーセは、主の言葉を語り終わった時、自分の顔に覆いを掛けたのです。 34~35:その後、モーセは主の御前に行って、臨在の幕屋で主と語るとき、いつも顔の覆いをはずしていました。彼は、幕屋を出てくるとイスラエルの人々に主が命じられたことをすべて語りました。人々に主の言葉を語る間、モーセの顔の覆いは取られていました。
主に命じられたことを人々に伝える間、モーセの顔には主の栄光がとどまっていたのです。その他の時、つまり御言葉の務めを終わる度に、モーセは顔に覆いをかけていました。いつも神の言葉の努めが終わると、モーセが覆いを掛けました。それは何故なのか。その理由を、旧約聖書は記していません。  この時のモーセのことを振り返ってパウロはこういいました。『モーセの顔に輝いていた束の間の栄光の為に』イスラエルは、モーセの顔を見続けていることはできなかった、と。モーセに現れたあの輝きは、ただの光ではなく神の栄光の写しです。ただしそれは消えゆくものの光でした。つまりモーセは、キリストの来られる前に律法に仕えるために召されていたからです。
モーセが仕えた律法とは、何のためにあったのでしょうか。律法の役割は、三つあります。第一に神と共に生きるため基本的ルールを教えること。第二に人間に自らの罪深さを教え、救い主キリストに導くこと。第三にキリストによって罪から解放された人が感謝の生活を送るための指針です。第三のことは、キリストに救われた人にだけ効力を持ちます。
ここは、律法の第二の働きに注目します。「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、わたしを殺してしまったのです、こういうわけで律法も聖なるものであり、起きても生であり、正しく、善いものなのです。善いものがわたしに死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではい。実は罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通してしめされたのでした。…自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7章10~20)。神の律法は、神を愛し、隣人を自分のように愛すること。それが善いことだと、わたしたちは誰でも知っています。それに神は、天地創造の時、わたしたち人間を御自身に似せて善いものとして、造られました。つまり人間は、神の掟を守れるように造られていたのです。しかし、アダムとエバが罪を犯したときから全人類は堕落しています。わたしたちの中に神が刻みつけたはずの神のかたちは台無しになったのです。だから堕落後の人間は、神のルールを守りたくても守れない、それほどに罪は邪悪でわたしたちに深く根付いているのです。
罪深い存在になったわたしたちを神が見捨ててもおかしくありません。しかし神はわたしたちのために、御子イエスを世に遣わされました。 神は御子において真の栄光を表されたのです。主イエス・キリストは人となって世に来られました。主イエスは、貧しい人々の間に大工の息子として生まれました。神の国を宣べ伝へ、病の人を癒し、悪霊に苦しめられた人々を解放し、罪人たちに赦しを告げていました。主イエスに望みをかけるものたちが多く出てきました。「かつて栄光を与えられたものも(モーセの律法)、この場合はるかに優れた栄光のために(主イエスが現れたため)、栄光が失われています」(コリント二3章9~10節)。しかし、イエスを信じた者がいる一方で、イエスを憎む人、妬む人も同じくらい出てきました。主は御自分の民を救うために来られたのに人、々は主を認めなかったのです。人々は、主を認めず十字架につけたのです。「わたしは既に栄光をあらわした。再び栄光を現そう」(ヨハネ12章28)。神が栄光を現したのは主イエスの十字架です。弟子に逃げられ、身ぐるみはがされて十字架に掛かる主イエスを人々は嘲笑しました。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。軽蔑され人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53章2~3)。十字架に掛かるイエスを見て、誰も栄光の主がここにおらえるとは思いもしません。しかし、十字架のイエスにこそ神の栄光は現れたのです。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8章3)。主はわたしたちの罪を担って十字架に掛かり、わたしたちが新しい命に生きるため、神によって復活させられたのです。
新しい契約が、主イエスによって確立し、わたしたちに与えられたのです。主イエスによってわたしたちは新しい契約に仕える者とされました。それは、主の霊に仕える務めです。
新しい契約に仕える者たちは、モーセのように顔が輝くわけではありません。主が人々に蔑まれたのだから、わたしたちも主と同じような目に合うことがあります。その為に人々の心に覆いがかかって、躓く人も出てしまうのです。パウロも、手紙は力強いが会ってみるとつまらない人だと、幾度も言われていました(コリント二10章10)。「今日に至るまでモーセの書が読まれるとき、覆いがかかってしまうのです。しかし、主の方に向き直れば覆いは取り去られます。」主によってわたしたちの覆いは取りさられるのです。主の栄光は、今わたしたちの目には隠されています。しかし将来に主が再び来られる時、誰の目にも明らかに主の栄光が現れます。「わたしたちは皆、鏡のように主の栄光を映しだしながら栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていきます」。主の再び来られる、その日その時にはわたしたちは主に似たものへ、名実ともに変えられます。その日をわたしたちは待っています。この聖餐は、来るべき神の国の食卓の先取りです。主が再び来られて、主と共に神の国の食卓を喜びを持って味わうことができますように。  

(説教者 堀地敦子)

「イエスのパン、再び」


(詩編78編12~29、マルコ8章1~10)

「そのころ」、大勢の群衆が再び、主イエスのもとに集まってきました。食べ物を持たず、すでに三日もキリストと過ごしています。飲まず食わずのまま、それでも人々はキリストと一緒にいることを選びました。主と共に過ごす時間は、飲み食いを忘れさせるに十分でした。 しかし、すでに三日が経とうとしています。このまま家に帰せば、疲れ果て、途中で倒れてしまうでしょう。この様子に、主イエスは人びとを深く憐れまれました。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。…中には遠くから来ている者もいる」(2~3節)。
すると、弟子たちが答えます。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れよ」と言われるのですか? これだけの人数を腹いっぱい食べさせるなど、どうしてできるでしょう。「無理です、できません」。弟子たちはそう答えました。無理もありません。ここは「荒れ野、砂漠」です。町や村から遠く離れており、しかもこのときの人数は四千人です。街中だったとしても、これだけの人数の食糧をどうやって調達できるでしょうか? 弟子たちの返事を聞いた主イエスは、逆に問いかけます。「パンは幾つあるか」。「七つです」。「そこでイエスは…パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちに渡した」。小さな魚も同じように配った。すると人々は、主イエスが配るパンと魚を食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠がいっぱいになった。そこにはおよそ四千人の人がいた。
実はこれとそっくりの奇跡が、すでに福音書に出てきています。マルコ6章30~44節です。そこでは五つのパンと二匹の魚で、五千人をキリストが養いました。なぜ、同じような奇跡が続けて行われたのでしょう? 前回の奇跡はガリラヤ湖のほとりで、ユダヤ人たちのためになされました。しかし今回は、異邦人たちが住む土地でのことです。「中には遠くから来ている者もいる」。これは、神から遠く離れた者たち・異邦人を指しています。救いはユダヤから始まり異邦人へ及ぶ。キリストにあっては、ユダヤ人もギリシア人もない。キリストの救いは、すべての人に宣べ伝えられます。神の救いの約束が、この奇跡を通して実現されようとしているのです。
ちなみに、五千人の奇跡は「青草」の野原の上で行われました。これに対し今回の舞台は、人里離れた所、「荒れ野、砂漠」です。食べ物・飲み水のない荒野で、天からのパンによって養われる。旧約聖書に出てくる、出エジプトの出来事を思い出させます。 神の民イスラエルは、エジプトで430年、奴隷として苦しみを受けました。やがて、救いを求める彼らの叫びを、天の父はお聞きになります。神は自ら降って、わが民イスラエルをエジプトの奴隷の家から導き出します。そのために遣わされたのがモーセでした。神は、紅海の水を真二つに割って、救いの道を彼らに渡らせました。その後イスラエルは、40年、荒れ野の砂漠の中を、神に導かれて旅します。「乳と蜜の流れる土地」、神がイスラエルに与えると約束された祝福の土地を目指して、荒れ野の中を進みます。昼は雲の柱、夜は火の柱で、主なる神はイスラエルを導かれました。やがて水がない、食べ物がないと、民から不平不満が起こりました。こんなことならエジプトで奴隷として生きていた方がましだった。神様は荒野の中で私たちを滅ぼすために、エジプトの国から導き出したのだ。疑いと不平不満がイスラエルを惑わします。しかし民が不信仰に陥った時も、神はマナとうずら、天からのパンを降らせて、養ってくださいました。神が与えたパンで、皆、飽きるほど食べ、満ち足りました。やがて約束の土地を目の前にした時、荒野の40年を振り返ってモーセは、イスラエルにこう語っています。「荒野の40年は苦労の連続だった。しかし、主なる神はいつも私たちを御心にかけ、助けと導きを惜しまなかった。40年砂漠を旅したが、われわれの服は古びることなく、靴もすりへることがなかった。神はわれわれへの約束を果たされた。主に感謝せよ。」 こう述べてモーセは、天のすみかに移されていきました。
かつてエジプトの奴隷の家からイスラエルを導き出た神は、今、イエス・キリストによって、罪の奴隷から私たちを解放してくださいました。わたしたち教会そしてクリスチャンは、救い主キリストによって、新しい出エジプトを体験している最中なのです。すなわち教会という群れは、神の国を目指し、この世を旅する神の民・新しいイスラエルです。キリストを信じて洗礼を受けた私たちは、キリストによって罪の縄目を解かれ、罪の奴隷という身分を後にしてきました。しかしゴールに至るまで、主が再び来られるときまで、"この世"という"荒野"を歩み続けなければなりません。そこで信仰の戦いが起こります。信仰生活に飢え渇きを覚えたり、疲れ果て倒れそうになったり。"この世"に未練を感じて、神不在の元の生活に戻りたくなる。そんな誘惑が襲ってきます。主を愛し主に信頼することが、とてつもなく空しく、愚かに思えてくる。キリストに希望を置くことに疲れさせ、救い主から引き離そうとする。悪魔の試みが、私たちを襲うのです。こうした荒野の試練に打ち勝つために、われらの主キリストは、天からのパンで、私たちの信仰を養おうとしておられるのです。 荒れ野で疲れ果ててしまわないように。キリストへの信仰・信頼を失わないために。キリストはわたしたちへの配慮を惜しみません。ご自身、肉を裂き血を流して、十字架で身を献げました。私たちを養う命のパンとなられました。最も苦しいとき、「神よ、彼らを赦してください」。神様に私たちを執り成し祈ってくださいました。主の配慮は尽きることがありません。
この主のお姿にくらべて、弟子たちはどうでしょう? すでに五千人以上の人びとを命のパンで、キリストは養ってくださいました。にもかかわらず、弟子たちの反応はとてつもなく鈍いのです。目の前でパンの奇跡が行われるのを、ついこの間経験したばかりなのに、まるで五千人のパンの奇跡など無かったかのようです。パンを裂く主イエスの姿は、弟子たちの記憶に残っていないのでしょうか? 主の偉大な奇跡を目の当たりにし、恵みのパンを味わったはずなのに、主の恵みをすぐに忘れてしまう。主の奇跡など、まるでなかったかのようにふるまってしまう。それとも弟子たちは、こんなふうに思っていたのでしょうか? さすがのイエス様もあれほどの奇跡は二度と起こせまい。五つのパンで五千人を養った後は力を使い果たして、もう次はない。そんなことを思っていたのでしょうか? キリストがなさった救いの御業を全く理解できない。そういうことが私たちの信仰生活にも起こりうるのです。
にもかかわらず、キリストは奇跡を行ない続けます! 私たちの見ている目の前で、私たちのかたくなさ、不信仰をものともせずに。私たちの目の前で、世界のど真ん中で、今日もキリストは、恵みの業・救いの業を行い続けておられます。信仰の鈍い私たちを、御自分の弟子として赦し受け入れます。さらに、主のご用のため、わたしたちを用いようとさえなさいます。「七つのパンを取り…人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」(8章6節)。わたしたちの不信仰を尻目に、われらのかたくなさや不信仰を打ち砕くかのように。今度こそ、あなたの目と心に焼き付けよ! 私こそ命のパンである。私が与える命のパンを、その目で見て、しっかり受け止めなさい。私が渡す命のパンにその手で触れて、そののぬくもりを確かめなさい。頭だけでなく心の底から、体全体で、私の救いを味わいなさい。記憶に留めなさい。不信仰きわまりない私たちを救うため、生かすために、キリストはご自身の肉を裂き、血を流して、今も私たちに聖餐のパンと杯を手渡しておられます。
このお方を信じましょう。これからも私たちは、不信仰の限りを尽くすかも知れません。わかっているつもりで、実のところ主を信頼しきれずに、罪を犯すかもしれません。でもそんなわたしたちのために、主は救いの奇跡を、救いの御業を自ら行われます。信じられるようになるまで、何度でも。主は忍耐強く、私たちを赦し、愛し、憐れみ、ご自身の命で養ってくださる。そのために主は十字架の上で血を流し、わたしたちの罪を忍耐してくださっています。主こそ私たちの救い、私たちの希望です。 ところで、この奇跡は、わずかのパンで大勢の人びとを養った、二回目の奇跡です。しかしまもなく、三回目が聖書に出てきます。最後の晩餐です。主に従いきれない。主と共に祈ることすらできない。弟子たち・わたしたちの罪を背負って、キリストは十字架にかかり、命を献げます。その前の夜、「これは私の体である。これは私の血による新しい契約である。…わたしの記念としてこのように行いなさい。」 そういって、最後の晩餐を自ら行いました。今も教会で、信じ行われている聖餐式です。礼拝の度に私たちは、キリスト御自身の御言葉と御体で、永遠の命へと養われています。
パンの奇跡を通して、キリストから弟子たち、そして私たちへと、大切な務めが与えられていることに気づきます。「パンを取り、感謝の祈りを唱え…、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」。「人々に配るように」、そう言って主は命のパンを、私たちに手渡されました。私たちの手を通して、更に大勢の人びとに、命のパン、キリストの恵みが届けられるように。これこそ主の願いであり、神の御心です。キリストによって養われる必要があるのは、私一人ではありません。御子を信じる者がみな、救われるのを、神は待ち望んでおられます。主が私たちに命のパンを託されたのは、私たちを通して更に一人また一人へと、キリストの救いが伝えられていくためです。このために私たちは救われ、主に用いられていきます。 この務めをよく果たすために、まず私自身が、これまで以上に、キリストの救いと恵みに深く触れて、主の救いを満喫するように。キリストの恵みに養われてこそ、主の命令に喜んで従い、命のパンを配り始めることができます。命のパンを手渡し続けることによって、私たち自身、主に養われ、変えられていきます。信仰から信仰へ、恵みから恵みへと。
主の恵みをこれまで以上に深く味わい、経験して、神の国を受け継ぐ者とされていこうではありませんか。主から託された使命を、感謝をもって果たしましょう。主がお与えくださった命のパンは、独り占めするにはあまりに大きすぎます。それほどにキリストの救いは豊かで尊いのです。キリストから受けたものを、この手で、人びとに伝え手渡していく。主の恵み深さ・尊さは、皆で手渡し分かち合うことによってこそ、世にあって明らかになるでしょう。
七つのパンで、四千人を養ったキリストが、今もそしてこれからも、ご自身の御言葉と聖餐によって、世界中の教会を養い続けます。その群れの中に、すでにわたしたちは導き入れられているのです。  

(説教者:堀地正弘牧師)

「太陽のように輝く」


(ダニエル書12章1~3節、マタイによる福音書13章24~30、36~43節)

「神の国」とは、いったいどのような世界でしょう? わたしたちが目指し歩んでいる、待ち望んでいる世界のことです。このことをわたしたちに教えようと、キリストは一つのたとえを始めました。「天の国は次のようにたとえられる」。良い麦と毒麦のたとえ話です。
ある人が良い種だけを畑に蒔きました。ところがあとから悪い麦がたくさん生えてきて、良い麦に覆いかぶさります。まるで毒麦のほうが多くなって、畑を我が物顔で占領するかのようです。そこでしもべたちが主人に申します。「主よ、良い種だけを蒔いたのではないのですか? いったいどこから、こんなにも悪い種が入ってきたのでしょうか?」 この様子は、わたしたちが生きている現実世界のことを言っています。二千年前、救い主イエス・キリストが世に来られて、救いの種を蒔いてゆかれました。キリストが天に昇られてからは、教会が福音の種を蒔き続け、世界中いたるところに救いの知らせが宣べ伝えられました。この間、イエス様を信じて救われた人たちが、この世界には、数えきれないほどいます。すでに天に召された方々、そして今も地上で福音を聞き、救い種・よき種をまき続けているわたしたちがいます。
にもかかわらず、この世界はどうでしょうか? 争いやいさかいがやむことなく、悲しい事件が後をたちません。神がつくられたこの世界は、いったいどうなってしまったのでしょう。世界は、どこへ行こうとしているのか? 人類はどうなってしまうのか? はたしてわたしたちに未来はあるのか? 毒麦だらけの現実に、押しつぶされそうになっている自分たちを発見します。
そういうわけで、しもべたちは、主人に言ったのです。「このままではいけない、この現実を放っておいたら、今に取り返しのつかないことになる」。「ご主人さま、毒麦を抜いてしまいましょう。今からでも遅くありません。どうかわたしたちにお命じください」。
ところが主人から、意外な答えが返ってきました。「いいや、だめだ。やめなさい。毒麦を今、抜いてはならない」。毒麦を抜こうとして、良い麦まで一緒に抜いてしまってはいけないから。そう弟子たちに、イエス様はおっしゃったのです。 わたしたちなら、どう返事をするでしょうか? イエス様、だいじょうぶです。うまくやります。わたしたちを信じてください。毒麦だけをちゃんと抜いて、この世界を、教会を、もっと良い世界に、あなたに喜ばれる、聖なる・ただしい教会にしてみせます。そう言うのでしょうか?
それはやめなさい。とイエス・キリストはおっしゃいます。なぜなら、わたしたちには、どれが良い麦で、どれが悪い麦か、見極める力も知恵もないからです。いいえ、聖書のみ言葉が与えられています。神様、あなたへの信仰があります。そう言いたくなるかもしれません。いえ、まちがってはいけません。だれが良い麦で、だれが悪い麦か、ほんとうのことを見分けることができるのは神様だけです。主イエスは、すでにこうおっしゃっています。「人を裁いてはならない」。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。…あなたの目からおが屑を取らせてください、とどうして言えるのか(マタイ7章1~4)。
「毒麦を集めようとすると、良い麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない」(13章29)。だから、刈り入れ・収穫の時が来るまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れのときが来たなら、神ご自身がその手で、悪い麦だけを抜き取り、永遠の火に入れ正しく裁いてくださる。その日が来れば、良い麦は神ご自身の手でしっかりと収穫され、神の国に導き入れられる。その日になれば、あなたがたは神の国を受け継ぐことができるのだから。
 「主が再びこられるそのときまで」。これが初代教会以来、すべてのクリスチャンの合言葉でありました。今でもそうです。今わたしたちの目の前には、目を覆いたくなるような悲しい現実、厳しい日常が、繰り広げられています。それは、アダムとエバが自ら罪に落ち、悪い麦の種をこの世界・神の畑に引き入れてしまったからです。わたしたち自身の中にある罪が、悪い種が、この世界を混乱におとしめてきた。自分自身とこの社会、そして共同体を、毒麦が覆いかぶさる畑にしてしまった。それはわたしたち自身の仕業なのです。
ところがわたしたちは、この事実を忘れています。神を無視し、神の敵・悪魔と勝手に取引をして、毒麦をこの畑に引き入れてしまった張本人であることを忘れています。にもかかわらず、目の前にある毒麦を、この手で抜きたくなるのです。ほんとうは良い麦であるかもしれないのに。自分の判断、自分の価値観、自分の気が済むことばかりを考えて、抜いてはいけない良い麦を、毒麦と決めつけ抜きたがる。自分自身が毒麦になってしまうかもしれないのに。
毒麦を抜いてはならない、と主イエスが強くおっしゃる理由が、ここにあります。 キリストははっきりおっしゃっています。毒麦を抜く、それは神様の仕事だ。良い麦と悪い麦をただしく見分け、良い麦だけを集めて神の国の倉に納めるのは、神様の仕事。わたしたちがするべきことではありません。わたしたちがなすべきは、神が定めたその日そのときを、信じて待つことです。たとえ毒麦に取り囲まれ心穏やかでいられなくとも、目の前の毒麦の働きに打ちのめされそうになっても、耐え忍ぶのです。刈り入れのときはまだだからです。寛容と忍耐をもって、そのときを待ち望みます。まもなくその時がやってきます。かならず訪れます。神様による刈り入れの時がきます。その日、わたしたちの救い主イエス・キリストが、天から再び来られて、地上のすべての罪と悪を、一掃してくださるでしょう。不信仰と混乱は最後の審判が必ず開かれます。そのことを信じて、わたしたちは待ち望みます。ただ、ぼう~と待っているのではありません。主に望みをかけて、待つ。待望するのです。この方が、終わりの日に、苦しみ悩むわたしたちを、救いの完成へと導いてくださる。その日、わたしたちの主がもう一度来てくださることを希望し、忍耐をもって待ち望むのです。これが、初代教会以来、主の復活を信じた教会の信仰、そして希望です。
このたとえ、毒麦と良い麦のたとえは、キリストにとってもきわめて重要な教えだったのでしょう。あの有名な種まきのたとえもそうですが、一度たとえが語られた後、意味の解き明かしを、キリスト自らなさっています。今日の聖書でいえば、13章36節からあとがそうです。そこにはっきりこうあります。「それからイエスは群衆を後に残して家にお入りになった」(36節)。すると、このたとえの意味を説明してください、と弟子たちがお願いし。もっぱら弟子たちだけに、み言葉の解き明かしをなさいます。つまり主イエスは、ご自身を信じる者、キリストに信じ従ってきた者たちだけに、神の国の秘密を明かされたのです。
このたとえで、見逃がしてはならないことがあります。38節で、主が解き明かされているとおり、「畑とはこの世界」、「良い種とは御国の子ら」、毒麦とは悪い者たち、これを蒔いたのは悪魔です。たとえそのものでも、あとからの解き明かしでも、主イエスが最初に述べておられるのは、良い種を蒔いたのは「人の子」、キリストご自身なのです。 キリストご自身が良い種を蒔いてくださったはずなのに、どうしてこの世界には、今もこんなに悪がはびこっているのですか? あなたが福音の種をまき、教会ができたはずなのに、どうしてわたしたちの教会は問題ばかり、不信仰がはびこっているのでしょう? そもそも、あなたが蒔いてくださったのは「良い種」といわれますが、このわたしは、こんなにも信仰が乏しく、罪や汚れ、過ちで満ちています。はたしてわたしは良い麦なのでしょうか? 
そうでないなら、もうわたしなど、抜いてしまってください。だれかわたしを抜いて、外の暗闇に放り出してください。イエス様、もうわたしにかまわないでください。もし、そのような嘆きに支配されることがあっても、キリストはおっしゃいます。いいや、毒麦を勝手に抜いてはならない。それはわたしがすること。あなたがすることではない。あなたが毒麦かどうか、どうしてあなたにわかるのか? たしかにあなたの中には良い種と悪い種が同居していて、からまっているかもしれない。自分ではほどけず、苦しいでしょう。でも勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。罪と死に勝利している。自分で自分を抜いてはいけない。あなたの手で、ほかのだれかを抜いてもいけない。あの人のことも、あなた自身のこともわたしに任せなさい。あなた自身をわたしの裁きにゆだねなさい。世界の行く末も、教会の将来も、すべてはわたしの手の中にある。わたしが良い種を蒔いたのだから。必ず芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせ実を結ぶ。わたしを信じなさい。わたしはだれよりも真実で、天の父の力と恵みにあふれているのだから。わたしこそが、わたしだけが、あなたの、あなたたちの羊飼い。この世界とその中にあるすべての教会の頭は、わたしなのだ。
終わりの日に主キリストが再び来られたなら、すべてが明らかになります。その日そのとき、主自ら蒔いてくださった一人ひとり、そして教会が、真に良い種として実を結び、主の手によって刈り入れていただけますように。皆でそうなれるように。皆でキリストと共に永遠の神の国を受け継げるように。キリストへの信仰を高く掲げて、その日に向かっていきたいのです。
「そのとき、正しい人々は、父の国で、太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」  

(説教者:堀地正弘牧師)

「神に喜ばれる」


(詩編23編、1テサロニケ4章1-12節)

東京神学大学に全盲の神学生がいます。生まれつき目が見えないそうです。チャペルの一番前の席に点字の聖書と讃美歌が置いてあるので、わたしも、そこに行くまでを助けたことがあります。今年度から、彼は盲導犬と一緒の生活を始めました。盲導犬の名前はキング。真っ黒なのですがゴールデン・レトリバーと聞いています。仕事中の盲導犬は堂々としています。しっぽを振りながら礼拝堂の中に導いていくのです。喜んで仕事をしていると思いました。さまざまな訓練を受けてできるようになった仕事でしょう。
盲導犬ではなく、聴導犬というのもあるそうです。耳の聞こえない人に大切な音を教えます。 ドアのピンポンが鳴っています。ヤカンがピーって言っています。赤ちゃんが泣いています。耳の聞こえない人のそばに行って、こっちこっちと合図をするのです。聴導犬を育てるための団体があります。ずいぶん前にテレビで見たことですけれど、このような訓練を受けないで、自分で聴導犬になった犬の話がありました。その犬が、音を教えたらとても喜ばれたという経験が積み重なったのかも知れません。後になってネットで調べたのですが見つかりませんでした。でも確かに実話でしょう。「この犬のおかげで、安心して子供を産み、そして育てることができました。感謝しても感謝しきれません。」と言っていたと思います。
さて、今日の聖書、1テサロニケ4章1節~12節は倫理について、生き方について教えています。1節に「歩む」、12節にも「歩む」とあります。1節~12節は「歩む」に囲まれていますが、そこには「歩む」について大切なことが書いてあります。「歩む」とは生きることです。生き方について大切なことは、神を愛することと人を愛することでした。例えば、マルコ福音書12章29節~31節です。「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
9節の「兄弟愛」はキリスト者同士の愛です。テサロニケはギリシアの北の部分、マケドニア州の中心の町でした。この教会に、マケドニアのほかの教会の信者が来れば、歓迎します。また、テサロニケの人たちが、ほかの教会を頼って行くこともあります。生まれて間もない教会で、使徒言行録(17章5節~9節)のように、ユダヤ人などの妨害で困ることがあったようですが、兄弟愛については合格しているようです。でも、兄弟愛だけでは内向きです。
先週の祈祷会で読まれた聖書は、今日の聖書のすぐ前(1テサロニケ3章12節)ですが、そこには、「主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」というパウロの祈りがありました。内向きではなく、「すべての人への愛」です。パウロはもっと先を見据えていたのです。
11節では、落ち着いた生活をすること、自分の仕事に励むこと、自分の手で働くことが求められています。キリストの来臨が近い、世の終わりが近いから、貯金なんて必要ない。働く意味もない。と考えることがあったのかも知れません。キリストの来臨は、終わりの側面がありますが、御旨の完成が大切なことです。
いずれにせよ、新しい教会はその場所で受け入れられる必要がありました。ユダヤ人たちは昔からそこに居ました。長い時間をかけて信頼されるようになったのです。「あの人たちはまじめだね。よく働くね。だから、変わっているけど安心できるね。」なんて言われるようになっていたのでしょう。キリスト教の教会も、同じように信頼を勝ち取る必要がありました。
さて、3節~8節の内容について、ロマ書2章21節~23節が参考になりそうです。「『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」これはパウロが同じユダヤ人に対して言っている言葉です。ユダヤ人が罪だと嫌っていることを、ユダヤ人自身がやっているではないか。ユダヤ人の罪を糾弾しているのです。ユダヤ人から見たら、異邦人は偶像礼拝をし、性的なモラルが低くて姦淫をし、隣人をむさぼって盗みをする。そうならないように、という注意でしょう。
3節~8節全部を、性的なモラルのことと考える注解書もあり、性的なモラルとむさぼりについて書いてあると考える注解書もあります。3節~5節を読みます。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」確かに、「みだらな行い」とは性的不道徳(ポルネイア)で、はっきりしています。けれど、情欲とあるところは強い欲望という言葉であって、性的な欲望とは限らないのです。
さらに細かく見ていくと、もっと深くて広いのです。3節~6節まで1つの長い文章になっています。次のような内容です。あなた方が聖であることが神の御心であり、第1に性的な不道徳から離れていること、第2に汚れのない心と尊敬の念をもって生活することを知っていること、第3に権利を侵害してむさぼり取ることのないことです。さらに切れ目なく、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになると続きます。
4節で妻と訳されているのは、もともと器という言葉です。2コリント4章7節に「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」という言葉があります。器には人という意味があります。ユダヤ人は器で妻を示すことがあります。でも、異邦人のテサロニケの人たちにはそれがすぐに通じるかどうかはわかりません。妻のつもりならはっきりと妻としておけば良いはずです。
もう1つ、「汚れのない心と尊敬の念をもって」とは、「聖であることと名誉において」というのがもとの意味です。
そこで4節と5節を、必要な部分を補いながら直訳すると、「あなた方1人1人が、聖であることと名誉において、あなた自身の器(人)をどのように保つかを知ること(が神の御心です)。神を知らない異邦人のように抑えられない欲望において、あなた自身の器(人)をどのように保つかではありません。」つまり、「欲望においてではなく、聖であることと名誉において、あなた自身の器(人)をどのように保つかを知ること」。これが神の御心なのです。
ある英語の聖書(NRSV)では、器を身体、つまり、「自分自身の身体を、聖であることと名誉において保つ」としています。自分を清く保つことは重要です。これは自分を愛することです。しかし、それに留まっていて良いのでしょうか。内向き過ぎないでしょうか。自分を愛することは出発です。隣人を愛することが求められているのです。やはり、器は妻や身体と限らない人です。隣人です。「あなた自身の器」とは「自分と関係の深い人」という意味で受け取るべきだと思います。当然、妻のことも考えられます。自分自身の子供、自分自身の親ということもあります。あるいは会社などで責任を負っている自分の部下という場合もあるでしょう。性的な欲望も含まれるので、性的なモラルについてこれを考えると、いわゆるセクハラ、児童虐待の問題は大きいです。父親と娘だけではなく、母親と息子との問題もあります。隠されていて大きい問題です。しかも多いのです。
ここで、性的なモラルに限らずに、4節と5節では、身近な人に対して、聖であることと名誉において正しい関係を持つことが求められているのです。
さて、6節にある「そのようなこと」とは「商売の取引」という意味で使う言葉です。ここも性的なモラルを言っているとは考えにくいです。確かに、昔、妻は夫の財産だから、姦淫は財産を奪うことになる、という考えがありました。しかし、パウロがここで言っているのもそうだとは思えません。いろいろな欲望が、他の人を踏みつけたりあざむいたりすることでしょう。単なる金儲けが、他の人を圧迫し、貧困に陥れていることがあります。現在、格差は大きな課題です。
7節は大切なところをくり返しています。「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」すなわち、「神は私達を聖なる生活をするように招かれている
のです。」3節にあるように、「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」聖であること、これは神のために取り分けられている状態です。あらゆることにおいて最も高いことが求められています。
このように高いことは無理だ、と思う必要はありません。少しずつでも聖であることを目指した歩みを続けることが大切だと思います。もっと後の5章23節~24節にこうあります。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」
主は、私達を十字架で救い、神の者、神に仕える者となさったのですから、終わりの時まで前進させて下さいます。
実は、今日の聖書のはじめの言葉が、私は、大好きなのです。1節です。「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。」
前に、わたしが中学1年から2年になるときに洗礼を受けたことを話させて頂きました。早い受洗でした。でも、2年生から3年生と進むにつれて、スランプのような状態になっていきました。「『神様が天地をつくり…』といった膨大な知識を持っていることが大切なのか。こうしたことが本当だと考えていることで良いのか。」こうしたことで、行き詰まっていた感じです。ところが、高校1年の時、クラス別の礼拝でこの聖書が読み上げられたとき、さわやかな風が吹いてきたように感じました。「これだ」と思いました。大切なのは知識や考えではなく、神様との関係なのです。主イエスと結ばれている、正しく結びついていることが第1なのです。それが出発なのです。そして、神様に喜ばれるように歩むことです。
今日はじめに申し上げた盲導犬や聴導犬の例、これは手本だと思います。知識ではなく、喜ばれること。神に喜ばれること。非常に高い要求です。神様のように聖であることですから。でも、選ばれ愛されている者にとって、絶望的な要求ではありません。私達は導かれています。神の導きに従って、終わりの完成を目指して進んで行きたいと思います。共に、歩み続けて参りましょう。  

(説教者:早川明彌神学生)