2019年  礼拝説教

「まことの喜び」


(詩編8編2-10節、ルカによる福音書10章17-24節)

今朝は先週迎えました聖霊降臨の約束を受け、神の御力、キリスト教の神の真実を現した三位一体の恵みを受けて礼拝を捧げる時となっています。この出来事は古代教会において、父子霊の三位一体の神に対する祈りと応答が、キリスト教の揺るぎない教えとして置かれました。それは、「父と子と聖霊の御名によって」との祈りと、「父、御子、御霊のひとりの主よ」と頌栄讃美されている中にあって、このことは神学的に様々に問われ続け、現在でも異端信仰との闘いの中にあります。ここでは神学的な分析を細かく申しませんけれども、実際この三位一体の神に対して、否を突きつける姿勢に、キリスト教会は今なお御言葉の真実をもって闘い、聖書の教えを守り貫く使命を与えられています。今朝は教団の聖書日課により、ルカ福音書10章から御言葉に聴きます。
そこでまず唐突に問うようですけれども、「喜び」「幸せ」ということに何を思うでしょうか。今年の4月からのNHK連続テレビ小説いわゆる朝ドラですが、北海道の十勝地方が舞台になって物語が始まっています。私自身、高校生や大学生の頃から、限られたお金を握って、何度も北海道を旅行したことがあります。それは強行軍的なバックパッカーと呼ばれる冒険的な格安旅行で、日本国中巡ったことがあります。中でも北海道は私自身の旅行先のリピート率として上位にあるため、まるでふるさとのようにも感じることがあり、メディアでとり上げられる度に、訪れた頃の記憶が鮮明によみがえってきて、心が落ち着くこともあります。そのひとつの十勝地方に、かつての国鉄時代に一世風靡した広尾線というローカル線がありました。帯広から南の襟裳岬に向かう途中に位置している広尾という小さな町までの84kmを、1、2両の短い編成によるディーゼルカーが走っていて、観光シーズンともなると日本全国から大勢の人達が訪れたものでした。中には本州や九州からオートバイや自転車で訪れていた人もいました。それもある特定の区間だけが極端に脚光を浴びて、訪れる人が絶えない場所がありました。その区間は「愛国から幸福ゆき」と印刷された硬い紙のきっぷを記念として手にするためでした。帯広から11km南にあるこの場所に旅行者は心を躍らせ、夢を抱いて青森からの連絡船に揺られて北海道へ渡り、十勝を目指しました。朝ドラとは逆の道のりですが…。それぞれの家から丸一日か二日、中には一週間や1か月を経てようやく辿り着き、そして念願のきっぷを手にするのですが、大半の人が手にした「幸福ゆき」のきっぷは、いつの間にか文字が薄れ、果てには色褪せた硬い紙一枚だけが残るという、遠い過去の思い出が記憶の中でのみ、あの時の念願が叶って与えられた「幸福ゆき」という文字が、印刷の消えたきっぷの中に浮かんでくるのです。これはごく一例にすぎませんけれども、「幸福」という言葉からの受け止めは人それぞれでしょう。旅行そのものは、経験した人々を大きく成長させることは確かであり、どのような旅行形態であっても、その時を経験したこと、これから訪れることを思う事でも心がワクワクするとても魅力的なものです。私自身、旅行業務取扱管理者の立場からも、このことは声を大にして言えることですし、大切にしたいことです。そこで人生の一端を思う中では、「どうなれば幸せなのか」と自問自答したときに、明確にそれも納得のゆく答えが出てくる人は、どれだけいるのかとも思います。多くの場合は、それも一般的に考えてみると、今よりも、もしこうであれば…と何かしらの改善や向上心を抱くものと思われます。時が経って、思い通りにその願うものが与えられた時に、果たしてそれでよしと受け止められるのでしょうか。それで幸せと言えるのでしょうか。人間の思うところは、実に厄介なものです。たとえ思いが叶ったとしても、さらに次、その次と願いを止めどもなく募らせ、結局は自分の願いが叶わないと見切りをつけて、もうそんな夢は抱かない、幸せなんてという感情に押されてしまうことになるということが多く見られます。そこから得ることは、逆説的なことになるのですが、自分が思い願っていることとは、違うものに幸せがあるということに気づかされ、教えられるということです。なかなかそれに気づくには時間がかかります。そこには経験という大きな出来事が存在すること、避けられない現実があります。
今朝の箇所では、弟子達が一つの喜びの中にある時に、本当の喜び、本当の幸せがどこにあるかを主イエスが弟子達に語りました。それも興奮冷めやらぬ弟子たちを前にして、冷静沈着に語りました。主イエスは、以前に、まず12人の弟子たちを選び抜き、そして「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と告げられました。そしてそののちに、何度も主イエスが癒しの業や奇跡の出来事を起こされました。それから主は12人の弟子たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けにな」り、弟子たちはその力をもって、村から村へと巡り歩いて福音を告げ知らせて、病気をいやしました。そして次には、72人の弟子たちを遣わしました。この時に悪霊が追い出されるという事が、次々と起こりました。実際もし、この時代、この時、この場面に自分がいたとするならば、そもそも聖書に出てくるどんな場面でもそうですが、言いようもない境遇に駆られることでしょう。一言では説明できない複雑な思いになります。今まで縛られていた人が自由になり、暗い思いに塞がれていた人が明るくなり、神の御業が、それも目の前で次々と起こる。そこで弟子たちは喜んで帰って来て、主イエスに『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』と報告しました。自分の力ではなく、主イエスの力に端を発するということは、弟子たちも言わずと知っていたことでしょう。しかしこの時に、主イエスは弟子たちを褒めません。告げられた言葉は、『サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた』と言われました。これは非常に大切な真理を私達に教えて下さっています。それは、私達が正しく、それも謙虚に時には大胆に、伝道活動、神の御言葉を宣べ伝える時に、神の御業がなされて、悪の業が打ち砕かれていく。主の御業の勝利が、この地に起こる事をあらわしていると受け止められるからです。現実的には大きな課題のある中で宣教の業が置かれていることは、皆さんも重々実感していることと思われます。それほどまでに一筋縄ではいかない中にあって、それも人間の思いを超えた中で起こり、進められる神の御業にあって、悪魔の力を打ち壊していく力が裏打ちされているということを忘れないでいたいと思います。 
 聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えて今が与えられ、教会の働きに再び力が与えられ、主の御腕に押し出されながらあることを、今一度思い起こしたいとも思います。この一端は、福音宣教が絶え間なく行われ、それも霊的な闘いの中で宣教の業がなされていく中で、悪の業が打ち壊されていくということです。昨今、確かな根拠を持ちながらも、意見を述べるなど何か一言えば、同情や理解の眼差しよりも、理不尽な言葉や誹謗中傷の言葉が倍以上になって返ってくる現実、この厳しくも複雑な状況にある日本の実態を常に思いつつ、主にある救い、先ほどの「幸福」ということについて、真剣に考えなければならないとも思います。私達は、異教の国であるこの日本に、潜在的に存在する救われるに値する人々、また反対に、自分の力が頼りで、幸せは自分が創るものと思い、福音を必要と感じない人々もたくさんいる中にあります。そこで先んじて福音の光に導かれてある中にあっては、皆が真実な道に導かれて救われる人が起こされますようにと願いますし、より深く強く神の御業が成されてほしいと、連日悲しい出来事で溢れかえっている日本の現実を思うときに、焦りの思いも募ってしまいます。しかしそこは聖書に立ち返って、私達自身の力ではなく、主の力に依り頼みつつ、救いの御業がなされてゆくことを願うものです。その為に私達は祈りつつ御言葉に聴き、神の御力に依り頼み、より真剣に福音を受け止めて人々に伝えていく必要があります。そこに厳しくも激しい闘いがあっても祈りながら続けていく時、私達にはいつ実現するか判らずとも、神の計らいによって時が叶ったその時に、悪の業が滅ぼされていくのです。神の御業の確かさを信じているならば、私達は、宣教の業の中に神の御栄光を見るものとして、歩み続けたいと思います。
そこで20節を見ますと、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」とあります。目の前に見える現実的な人間の喜びを、主イエスは真っ向から釘を刺し、身を制します。そして『あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』と力強く告げられます。つまりは、一時的なもの、いずれ消え去っていく喜びに対して、主は弟子たちを通して私達にも、一時の喜び事に囚われずに、本当の祝福、喜びを求めなさいと言い続けておられます。私達が永遠の命の書に名前が書き記されている価値は、地上でのどんな奇跡や素晴らしい業より、比較できない価値のある事だというのです。多くの人々が「幸福」と思い描いているこの世の多くの出来事は、生活のよしあしの向きであって、それも目に見える奇跡や自分自身の名声や成功、出世などの名目と共に大きな喜びが湧き上がるものです。それは誰から見ても分かりやすいですし、幸福のしるしとして見えるものでしょう。しかし、天の御国に名前が記されている事をそれ以上に喜び、その価値の深さを受け止めなさいと教えられます。使徒パウロが書簡で記した有名な言葉にこうあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです(Ⅰテサ5:16-18)。」と。しかし実際この世にある以上、喜びも悲しみもあります。正直、いつも喜んでばかりはいられない現実でしょう。右の頬を打たれて、また生活費や仕事を奪われて、へらへらと笑っていられるほど楽観的な態度姿勢をもつことは難しいことでしょう。しかし主の御言葉を受けるとき、あなたの名前が天に記されており、あなたの御国はそこにあると宣言される故に喜べるというものです。私達の小さな、狭い人間の思いでは計り知り得ない祝福がそこにあるというのです。苛立つほどの現実が拭い去れない中にあっては、このことに葛藤を覚え、複雑な思いに駆られますけれども、私達は祈りつつ、主に捉えられていることを受け止めていく必要があります。
 次の21節を見ますと、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ。これは御心に適うことでした。」とあります。この時、主イエスは聖霊に満たされて喜びました。ここにある「幼子」は、自分の弱さを知る賢い者、心からへりくだる者という意味です。神の恵みはそういう人に現された。この事を、主イエスは褒め称えています。預言者イザヤの言葉も思い起こされます。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり。へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる(57:15)。」と。神は権力権威ある者と共にではなく、自らの罪に心砕かれへりくだった人、ここで言う「幼子」と共に住むと言われます。私達が神の恵みに与るに必要な事は、私達が神との和解を必要とする罪を自覚し、へりくだる者、砕かれた者になっていく。神は御前にへりくだる事がどんなに大切であるかを教えます。22節の御言葉がそのままです。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」と。地上に現われた主イエスは、社会から追いやられる姿をまとっておりました。そこで真の意味を知っていたのは、父なる神のみでした。また更には、父なる神についても、どんな方であるかわかる様にされたのは、主イエスが父なる神を知らせようと決めた者達、それはまことの信仰者にしか教えられなかったということです。つまりは、私達はイエス・キリストによって、イエス・キリストを通してへりくだり、自らの愚かさを認める故に、自らを神とせず、神を神として受け止められるように神に捉えられました。これは大きな祝福であり、何ものにも比べられないものです。
 私達がここから教えられることは、福音宣教が悪しき者を打ち壊す力を持つものであり、神の国の実現に向けて霊的な闘いを伴う働きであることです。使徒パウロが励ましたように、イエス・キリストの名によって悪魔の業に打ち勝っていくとの言葉に後押しされます。ここでヨハネの書簡を思います。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか(Iヨハ5:4-5)。」イエス・キリストを神の子と信じる者に、この勝利の力が与えられています。主を信じる一人ひとりが本気になって祈り、主に仕える人としてあるとき、悪の業に打ち勝ち、神の御業が豊かに現される希望に生かされます。あのクリスマスの夜に、羊飼い達が口を揃えて言った言葉が浮かびます。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか(2:15)」と。この世の権力に圧せられ、人々の自己中心的な思いや言動に押しつぶされそうになっていた暗い夜に、一つの救いの光が与えられたのです。そして今の私達にも、まことの救いの光、喜びなる主を信ずる信仰が与えられているならば、それぞれに主に満たされて、キリストを証しする者にならせていただきたいと思います。
ここから神の祝福が注がれていく事を受け止めて、更に主を慕い求める者、御子イエスが父なる神に従順であられたように、私達も主に倣う者として、神の真実なる道を求め続ける求道者としてあり続けたいとも思います。神はその志しある者に、確かな道を開いてくださいます。私達は、父なる神の恵みの偉大さを思い、主から与えられた救いの確かさを抱きつつ、御霊の導きの中で、共々に主の御名を掲げ、これからの日々も、福音の真理を宣べ伝えていく中に遣わされてまいりたいと心から願うものです。

(説教者:鮎川 健一)

「エルサレムの娘たち」


(哀歌2章13~15節、ルカによる福音書23章26~31節)

「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1章15)。キリストがまだ地上におられたとき、そう言って、宣教活動を始められました。
あの時と同じように、今また、神の「時が満ち」ました。わたしたちのために十字架にかかり、三日目によみがえられた主。キリストが復活されて50日が満ちたとき、偉大な出来事を神が起こされました。ペンテコステのこの日、聖霊が天から降り注いで、教会はその歩みを始めました。
「一同が一つになって集まっていると」。主イエスを信じる人びとが、エルサレムで集まっていたのは、この日が初めてではありません。すでに使徒1章14~15で、120人もの弟子たち、婦人たちが「一つになり」、「心を合わせて熱心に祈って」いました。そこに、時が満ちて、聖霊が豊かに天から降り注ぎました。
この人びとは、主イエスが地上でわたしたちと共に生活されていた間、一緒にいた者たちです。主がバプテスマのヨハネから洗礼を受け、神の国の福音を宣べ伝え、多くの不思議な業(奇跡)を行っていた間、離れずイエスに従ってきた人たちでした。
この人びとも、キリストが十字架につけられたときには、主のもとから皆、離れ去って行きました。その人びとを、よみがえられた主が、再びご自身のもとに呼び集められました。自分たちの罪がキリストの十字架によって償われ赦されている。よみがえられた主がわたしたちを教会の群れに再び加えてくださった。イエス・キリストの恵みを、身をもって味わい、経験した者たちです。
この人びとを教会―キリストの生きたからだとするために、天の父は、助け主・聖霊を、地上のわたしたちに、豊かに注いでくださっています。
ペンテコステの日に繰り広げられた出来事に、居合わせた人びとは、みな驚き、戸惑いました。突然大きな音が家中に響き渡ると、主イエスの弟子たち一同は聖霊に満たされて、さまざまな国の言葉でしゃべり出したからです。弟子たちのなかで、外語語の教育を受けた者は一人もいません。貧しい漁師たち、取税人などがほとんどでした。
この日エルサレムには世界中のたくさんの国々から、大勢の人びとが集まっていました。どの国から来た人であっても、その人に届く言葉で、「神の偉大な救いの業」が、弟子たちを通して、語られました。この日、教会最初の伝道が、神の霊・聖霊の生きた働きによって始められました。
しかしこの出来事は、ある種の混乱を人びとにもたらしました。その様子を聖書が伝えています。人びとの反応はこうでした。「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられ」た。ある人々は「驚き怪しんで言った。」「この人たちは皆、ガリラヤの人ではないか」。さらに、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者さえいました。聖霊が生きて働くと、まず最初に出てくるのは、否定的な反応です。どんなにすばらしい神の業が行われても、すぐにわたしたちには理解できないのです。
けれども、皆が皆、否定的だったわけではありません。「わたしたちの中には」、はるか遠くから、様々な国々から足を運んできた人びとがこれだけたくさんいる。なのに、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2章11)。 神は、ときに、人びとの間に混乱を起こします。神は自ら起こした混乱を通して、救いの計画を推し進められます。混乱を用いて、神はご自身の救いの業を、進め、成し遂げられるのです。
聖霊を受けた弟子たちは、実にさまざまな国の言葉で話し始めました。しかし、弟子たちが語っていたのは、ただ一つのことです。「神の偉大な業」、イエス・キリストを通して、神が成し遂げられた、わたしたちの救いを宣べ伝えました。しかも、そこに集められた世界中の人びとに、それぞれ、ふるさとの言葉で宣べ伝えました。まさに聖霊の御業です。このような事がおできになるのは、天地の造り主・全能の父である神以外にはおられません。
使徒言行録の続きをみますと、弟子たちの語る言葉と姿に圧倒され、驚き、戸惑いながらも、「神の偉大な業」を信じていく人びとの姿が描き出されていきます。ペトロが語ります。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(2章38)。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが(教会の)仲間に加わった」(2章41)。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(2章42)。
ここで聖霊なる神は、地上で、二つのことを同時に行われました。
まず、すでにイエス・キリストを信じて歩んでいる者たちを、聖霊が強めました。ご自身の群れ・教会で彼らを生かし、信仰者一人ひとりを伝道のため用います。さらに、これまで聖書やキリストとかかわりなく生きてきた人たちを、キリストの教会に加えようとなさいました。キリストを信じて救われるようにと、神が新たに人びとを選び出し、教会の群れの中へと導かれたのです。
この日この場に居合わせた人びとの口から、こういう言葉が飛び出しました。「自分のふるさとの言葉」で、神の偉大な業を聞いた! 「ふるさとの言葉」とは何でしょう? 文字通り、自分が生まれ育った土地の言葉です。日本人のわれわれにとっては日本語、さらに静岡の言葉でしょう。 ふるさとを離れて都会や外国で長く暮していると、ふるさとに帰ってきたとき、なつかしい言葉の響きがわたしたちの心を潤してくれます。疲れをいやしてくれます。 この日、聖霊がわたしたちに届けてくださったのは、それ以上のものです。地上のふるさとの言葉を通して、天のふるさとの言葉を、神がわたしたちに聞かせてくださいました。天の調べが、教会にはあふれているのです。
そのため教会で礼拝をしていますと、時々、こういう声を耳にします。生まれて初めて教会にいらっしゃった方が、「初めて来た気がしない」。そうおっしゃるのです。「教会の礼拝に出ていると、心が洗われる気がします」。なかには、生まれて初めての礼拝で、思わず涙した。何年分もの涙を流した、という方もいます。これまでの人生の重荷を、神の前で下ろすことができた。まさかそのような味わいをするとは思いもよりませんでした。洗礼を受けていかれる方たちの中に、そういう方がよくおられます。 生まれて初めての教会で、なぜ、そのような気持ちになるのでしょうか? わたしたちの天の父である神が、今日もこの場に、わたしたちを招いておられるからです。そしてわたしたちに理解できる言葉で、天のふるさとの話を、神様がしてくださっている。それに触れるからにちがいありません。
天の父である神が、わたしたち人類をこよなく愛してくださっていて、迷い多く罪深いわたしたちのために、尊い独り子イエス・キリストをお与えくださいました。キリストを信じ受け入れるなら、だれもが罪と悩みから解き放たれて、神の子として新たに生き直すことができます。ぶどうの木、命の木であるキリストにしっかりつながって、教会で、皆で一緒に、永遠の命を生きることが、この私にもできるようになります。キリストに接ぎ木をされて、教会のメンバー、とこしえの神の国に生きる一人にしていただけます。 この恵み深い知らせを、聖霊なる神が、教会を通して、わたしたちに告げ知らせてくださっています。天と地をつなぐ聖霊が、ふるさとの言葉でこれからもわたしたちを慰め、励ましてくださいます。キリストと共に神の国を受け継がせ、そこで永遠の憩いを味わわせてくださるのです。
なつかしい天のふるさとの調べが、ペンテコステの日以来、天から響きわたっています。この言葉に捕らえられて、わたしたちはいまもここにいます。これからも、天のふるさとを目指して歩んでいきます。
今に至るまで、聖霊の風は、いまも変わらず吹いています。世の終わり、主が再び来られるときまで、聖霊はわたしたち教会に注がれ続けています。わたしたちを救うため、神は、ひとときも休むことなく、今も働いておられます。神は、わたしたちのことを、片時も忘れていません。聖霊を受けるとき、神の御心が痛いくらい、見えてきます。伝わってきます。わかってきます。天にある喜びがわたしたちを捕らえ、感謝の生活へと押し出されていくのです。  

(説教者:堀地正弘牧師)  

「人の心を知る主」


(詩編69編26~29節、使徒言行録1章15~26節)

・キリストの昇天とペンテコステの間
 今日読まれた聖書の言葉は、昇天とペンテコステの中間を書いています。
 主イエスは、復活後弟子たちに現れ、神の国のことを話してくださいました。それから40日が経って、主イエスは天に引き上げられて行きました。主が天に引き上げられていく有様を見て、弟子たちは呆然と立ちつくしていました。そんな弟子たちに天使がいいました。「ガリラヤの人たち見上げなぜ天を見上げて建っているのか。天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1章11節)。われわれは、今、主イエスが昇天されてから再臨されるまでの間の時を生きています。主が再臨される日まで教会は主イエスの証人となります。
使徒たちは、オリーブ山からエルサレムに戻って、主イエスが約束された聖霊を待ちました。120人程の人々が一つになっています。ペトロが立ち上がって兄弟達に話し始めます。最後の晩餐の席で主イエスが語られたのある言葉を思い出します。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたの為に、信仰がなくらならいように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章31~32)。兄弟たちの真ん中に立って語るぺ殿の姿は、あの時の主イエスの言葉が実現したものです。 ペトロが語ったのは、ユダのことでした。ユダのことは、まだ皆が鮮明に覚えていました。十二人の使徒のひとりであった彼が主イエスを祭司長たちに引き渡した。それは、共に主イエスに従ってきた仲間にとって大きな打撃でした。彼は、苦楽を共にした仲間です。祭司長や律法学者たちから、主イエスや弟子たちのことを悪く言われたたくさんありました。そんな時も、共に励まし合ってきた仲間のユダがなぜ?兄弟姉妹にとって今も信じられない悲しいことでした。
主イエスを裏切った後、ユダはどうなったのでしょう。彼は不正を働いた金で土地を買いました。ユダの所有していた不正な金とは、主イエスを引き渡して受け取った銀貨30枚のことでしょうか。それ以外にもユダは不正な金を持っていたのでしょうか。「金入れを与っていながら、その中身をごまかしていた」(ヨハネ福音書12章6)。もしかするとユダは、主イエスを引き渡す前から小さな不正を重ねてきたのかもしれません。小さな不正が重ねられた結果、主イエスを祭司長たちの引き渡すことになった可能性もあります。 ともかくユダは不正に手に入れた金で土地を買いました。その後まもなく、彼は、転落死しました。自分で買った土地に真っ逆さまに落ちて、体が二つに裂けて、内蔵が飛び出てしまったのです。
ユダの最後について、マタイ福音書27章3~10には、全く違うように書かれています。彼は、自分で命を絶ち、人生の幕を引いたのだと言います。
それに対して使徒言行録は、主イエスを離れ、自分の思うように生きようとした。しかし、ユダは自分で思っていたような自由を手にすることはなかった。そうして彼の人生は破綻したのです。主イエスはこう言っています。「わたしについて…書いてある事柄は必ず必ずすべて実現する」(ルカ24章44節)。旧約聖書において、弟子が裏切ることも既に預言されています。わたしたちは誰も自分の人生を自分で思うようにコントロールできません。人間は誰も宛てになりません。たとえ人間があてにならなくても、主の御業に支障はありません。主の御手が及ばない現実などはありません。
聖書が示しているのは、裏切りについてだけではありません「その務めは、他の人が引き受けるがよい」。使徒の中から裏切りがあっても、主は前に進んで行かれます。だから、十二使徒の座を何時までも空席にしてはならないのです。わたしたちは、主の与えた務めを滞らせてはならないのです。このことを聖書は、既に後の教会の為に記していました。
欠けてしまった使徒の代わりに務めを担う人を選ぶべきです。それで、ペトロは皆に言いました。われわれの仲間の中から一人を、ヨハネのバプテスマから、主イエスの昇天の時まで何時も一緒に歩んできた人を選ぼうと。ヨハネのバプテスマの時から「時は満ちた神の国は近づいた」と、世に向けて福音が語られ始めました。ですから神の国の福音の初まりから、主イエスの昇天まで、主にあって共に歩んだものから使徒を選ぶのです。 主イエスは、公の宣教の生涯の中で沢山の人を弟子としました。しかし、せっかく主の招きに応えて弟子になっても、主から離れていく弟子たちも実に多かったのです。それでも、ここに120人が集まって、しかも主の十字架の死を乗り越えて教会が一つになって祈っていること、それこそが奇跡であります。
彼らの中から二人が候補者に選ばれました。バルサバとも呼ばれ、ユストとよばれるヨセフ、そしてマッテアです。この二人が新しい使徒の候補に選ばれたのです。最終的に誰に使徒の務めを任せるのか。 人々は、まず主に祈りました「すべての人の心をご存じである主よ…」。このくじ引きは主の御心を聞くためのものであったことが重要なことです。主の御心によって選ばれたのは、マッティアです。彼はひょっとしたら、もう一人の候補者に比べて冴えない人だったのかもしれません。だけど主はこの人を選ばれました。人は目に映ることを見ます。しかし主は心で見るのです。一見さえない人が主に選ばれることがよくあるのです。ダビデの場合もそうです。兄達に比べて弱々しく見えたダビデを主は選ばれました。パウロもそうです。彼は手紙は立派だけれど会ってみるとつまらない人だと言われています。それでも主はパウロを異邦人の使徒に選ばれました。「兄弟達、あなたがたが召された時のことを考えてみなさい。人間的に知恵のあるものが多かった訳ではなく、能力のあるものが多かったわけでもありません。ところが神は、知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学なものを選び力あるものに恥をかかせるため世の無力なものを選ばれました。…それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(コリント一1章26~29)。
わたし達の前にはいつも祝福と呪いがあります。祝福とは120人が一つになって祈れること。しかも、主の十字架の死という痛みを超えて一つになって祈ったこと。呪いとは、主が自ら選ばれたものが、主を離れさり、戻って来なかったことです。
「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて、それに打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりもずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なるおきてから離れさるよりは、義の道を知らなかった方が、彼らの為によかったであろうに」(ペトロの手紙二2章20~21)。たとえつまづくことがあっても悔い改めて主に立ち返ることです。本当に悔い改めるためには自分の罪を直視することが必要で、そこには悲しみも伴います。それでも、主なる神に立ち帰ることです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(コリント二7章10節)。教会は仲間の背信に悲しんでいました。けれども、教会は悔い改めて新しい時代へと歩んでいきました。教会は、新しい歩みのために、主の御心をきくことから始めたのです。  

 説教者 堀地敦子

「祝福するキリスト」


(レビ記9章22~24節、ルカによる福音書24章50~53節)

復活を遂げたキリストは、弟子たちの見ている目の前で、天に上げられていきました。ルカは、天に昇られるキリストの姿をもって、福音書をしめくくっています。(ちなみに、四つある福音書の中で、キリストの昇天をはっきり記したのは、ルカによる福音書だけです。) ルカは、メシアの先駆けである洗礼者ヨハネの誕生と、救い主イエス・キリストのご降誕から、福音書を書き始めました。その福音書が、キリストの十字架・復活、そしてキリストの昇天をもって閉じられようとしています。ここには深い意味があります。
同じルカが書いた使徒言行録をみると、それがわかります。使徒言行録1章によれば、十字架にかかりよみがえられたキリストは、40日間、弟子たちと共に地上で過ごされました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1章8)。こう話し終えると、主イエスは彼ら(弟子たち)の見ている目の前で、「天に上げられ」ました。そこに天使が現れ、弟子たちに告げました。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、…あなたがたが見たのと同じ有様で」、再びおいでになる(11節)。
ルカが、福音書の終わりと使徒言行録の始めに、キリストの昇天を二度も描いた意図が伝わってきます。
キリストが天に昇られたのは、地上の歩みを終えて、天国で休むためではありません。わたしたちのこの世界と教会を、歴史の終わりに神の国に導くため。そのためキリストは天に昇られました。今も神の右の座にいて、聖霊を通し、地上にいるわたしたちに語りかけ、働きかけ、世界の歴史を導いておられます。天に昇られたキリストは、天の父と聖霊と共に、今も生きて働いておられます。このことを信じるようにと、天使はわたしたちに告げています。
そして何より、わたしたちの救いを完成するため、世の終わりに再び来られるイエス・キリストを信じて待ち望むように、と聖書はわたしたちを促します。わたしたちの罪のために十字架にかかり、復活された主が、終わりの日にもう一度来てくださり、神の国と世界の救いを成し遂げてくださいます。このことを信じて、その日を待ち続けるように。そのために主キリストは、父なる神から聖霊を受け、ペンテコステの日、わたしたちに注いでくださったのです。
主キリストは、ご自分が天に昇られるときのお姿を、弟子たちに見せました。まるで彼らの目に、ご自身の昇天を刻みつけるかのようです。それほどキリストは、ご自分が再び来られることを、信じて、待っていてほしいのです。 不思議といえば不思議です。キリストが死者の中からよみがえられたときには、主が復活されるその様子を、だれも目にしていないのです。主が納められた墓を、日曜日の朝、婦人たちが訪れると、そこはすでに空でした。だれも、主キリストが墓から出てくる瞬間を見ていません。しかし、わたしたちは、キリストが確かによみがえられたことを、弟子たちとともに信じています。見ずに信じています。
キリストが貧しい姿でお生まれになったときには、主はご自分のそのお姿をわたしたちに見せてくださいました。主が十字架におかかりになったときも、痛ましいそのお姿をわたしたちは目で見て、主の言葉や祈りを、今も胸に刻んでいます。主が復活されたその瞬間こそ、だれも見ていません。しかし、よみがえられた主が、わたしたち弟子たちに現れ、手を差し伸べてくださったことを、わたしたちは知っています。信じています。そして主の復活を信じることができるのは、この日、天に上げられていくお姿を見せ、わたしたちの心に刻みつけてくださったから、にほかなりません。
キリストが天に昇られるとき、主は弟子たちを都の外(郊外)に連れ出しました。主の導きに従い、主のあとについてきた弟子たちを、キリストは手を上げて祝福されました。祝福しながら弟子たちを離れて、ついにキリストは天に昇られました。主イエスが、どのような言葉で祝福されたのか、聖書には書いてありません。一説によれば、旧約聖書・イスラエル最初の祭司となったアロンの祝福を口にされたのでは、ともいわれます。 「主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔をもってあなた(がた)を照らし、あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなた(がた)に向けて、あなた(がた)に平安を賜るように。」(民数記6章24~26節) 今も世界中で、教会の礼拝の終わりにささげられている祝福の祈り(祝祷)です。 もちろん、あの日どのような言葉で、主キリストがわたしたちを祝福してくださったか。ほんとうのことはわかりません。しかし確かに、主はわたしたちを祝福して、それから天に昇られました。わたしたちの罪を背負って十字架にかかり、復活したキリストが、地上を去るにあたって、わたしたちのことを直接、祝福してくださったのです。
イエス・キリストの祝福は、「神があなたがたを祝福してくださるように」、との祈りでした。神にわたしたちをとりなす大祭司となって、神からの祝福をわたしたちに祈ってくださいました。神からの祝福とは、どのようなものでしょうか?
世間でもよく、祝福の言葉を口にします。子どもや孫の結婚とか就職とか、合格のお祝いとか、うれしいこと・めでたいことがあったとき、「おめでとう」と、心をこめて祝福の言葉を贈ったりします。
神からの祝福は、それ以上のものです。地上にどれほどたくさんの「おめでとう」があったとしても、それよりも、もっと尊く、美しく、神の栄光に満ちているもの。それがイエス・キリストの祝福です。
神からの祝福、それは、神の恵みそのものであり、神の慈しみと憐みといってもよいでしょう。神の祝福は、神の無償の好意から生まれます。神が、わたしたちに「御顔を向けてくださる」。それ自体、大きな祝福です。神が、わたしたちから顔を背けることなく、罪深く、弱く、貧しいわたしたちを、いつも心に留めていてくださること。それが祝福です。しかも神の祝福は、神とのうるわしい交わりをもたらします。神との祝福に満ちた交わりを、神様の方からわたしたちにもたらしてくださいました。この交わりに、わたしたちは、イエス・キリストによって導き入れられているのです。
ほんとうなら、罪のため、神様との関係にひびが入り、壊れてしまっているのに。しかも、神様を裏切り、神との交わりを壊してきたのは、わたしたちの方なのに。そのことを神は十分知っていながら、神様は、わたしのために、救い主キリストをお与えくださいました。わたしたちの背きを赦し、恐ろしい罪の毒牙からわたしたちを守り救い出そうと、神はその独り子をお与えくださいました。
御子は、神の御心に忠実に、十字架の死に至るまで従順に歩まれました。神の恵みの心に、徹底して仕えられました。十字架で命を捨て、よみがえって、わたしたちの救いとなられました。神様とわたしたち人間との間を隔ててきた、憎しみと恨みと罪の壁を、キリストが、ご自身の死によって打ち破られたのです。
罪と死に勝利されたキリストが、弟子たち、そしてわたしたちを祝福して言われます。「イエス・キリストの子どもたちに祝福あれ!」
救い主キリストが祝福してくださったがために、わたしたちの運命は大きく変えられました。罪に堕ちて、神様との関係が断ち切られ、死んだも同じになったわたしたち。神との交わりから締め出され、一人孤独に生きて、死んでいかねばならなくなったわたしたち。そのわたしたちに、キリストという人生の同伴者が与えられました。神の独り子キリストと共に、神の御前に出て、父なる神との恵みあふれる交わりに生かされています。神の祝福がある限り、わたしたちはもう一人ではありません。イエス・キリストが共にいてくださいます。もはや決して一人になることはありません。わたしたちの定めは、この方により、完全に塗り替えられました。
この世の祝福は、晴れの日、おめでたいときだけのものです。しかし主による祝福は、晴れの日だけでなく嵐の日も、苦しい試練のときにも、変わることなく注がれています。どのようなときも、神はわたしたちに御顔を向けてくださり、恵みと光の中を歩ませてくださいます。苦しみと試練の日々にも、イエス・キリストの祝福が、わたしたちを支え生かすのです。神とのうるわしい交わりの中を生き、恵みの光に照らし出され、神の祝福は決してわたしたちから離れることはありません。
その証拠に、この日、イエス・キリストから祝福を受けたばかりの弟子たちの姿を見てください。「彼らはイエスを伏し拝んだのち、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず…神をほめたたえていた」(52~53節)。
イエス・キリストの後ろに従い、神からの祝福を受け入れたとき、わたしたちは真にキリストを礼拝する者とされていきます。キリストを真に礼拝するとき、わたしたちの魂は大きな喜びで満たされます。神への賛美に、突き動かされていきます。
すべては、わたしたちを祝福してくださるキリストから、始まりました。このことをルカは、福音書のしめくくりで、のちの教会の、わたしたちに示そうとしました。 今このときも、イエス・キリストは、神の右にいて、そこからわたしたちを祝福しておられます。再び来られるそのときまで、主を信じる者たちの群れを、その手で守り、今日もわたしたちに御顔を向けつづけておられます。主の祝福の中に身を置くなら、悲しみは喜びに、怖れと不安は、神への感謝と賛美に変えられていきます。それを成し遂げてくださるのは、主キリストです。    

(説教者:堀地正弘牧師)

「主の証人となる」


(詩編22編25~32節、ルカによる福音書24章44~49節)

キリストはよみがえりました。墓を開き、聖書の言葉を開き、弟子たちの心を開きました。弟子たちの心をキリストが開かれたのは、聖書の言葉を悟らせるためでした(45節)。
「わたしについて…預言された事柄は、必ずすべて実現する」(44節)。「これこそ、わたしがあなたがたと一緒にいたときに言っておいたことである」(44節)。
キリストがまだ十字架にかかる前、ことあるごとに弟子たちにお語りになっていたのは、このことです。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中からよみがえる」(46節)。
キリストは、わたしたちのために十字架で命を捨てられました。そして三日目の朝、墓を開いて復活なさいました。キリストの十字架と復活こそ、わたしたちの救いです。二千年に及ぶ世界中のキリスト教会が、もっとも大切にしてきた信仰がこれでした。わたしたちも、死んでよみがえられたキリストを救い主と信じ、あがめ、今日も礼拝しています。パウロも言っているとおり、もしキリストがよみがえられなかったとしたなら、わたしたちの信仰は実にむなしいものとなってしまうでしょう。
ならば、信仰とは、過去をふり返るだけのものなのでしょうか? 二千年前の過去の出来事を振り返ってさえいれば、わたしたちは慰められ、救われるのでしょうか? 教会は、博物館ではありません。キリストについての過去を学ぶために、教会に来ているわけではありません。もうそうなら、教会はキリストの墓になってしまいます。「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は…復活なさったのだ」。今こそわたしたちは、墓を訪れた女性たちが耳にした、天使の言葉を聞くべきです。主はよみがえられました。今も生きておられます。神の右にいて、そこからわたしたちに語りかけています。わたしたちはこの礼拝で、今も生きておられるキリストの声を聴いているのです。 二千年前、よみがえられて間もないキリストは、弟子たちにご自身の口でこう語りかけておられます。47節:「罪の赦しを得させる悔い改めが、わたしの名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。「あなたがたは、これらのことの証人となる」のだ。
復活したキリストが、今もわたしたちにこう呼びかけています。キリストが呼びかけているのは、教会です。二千年前あの場にいた、弟子たち、婦人たち数名だけではありません。今まで数え切れないキリスト者の群れが、生きておられるキリストから、同じ声を聴き取ってきました。その列の中に、わたしたちもいます。確かにいるのです。
キリストは、わたしたち一人ひとり、そして教会を皆、「主の証し人」とみなしています。教会の牧師たちとか、宣教師たちだけではありません。信徒の中から選ばれた長老たち、だけでもありません。キリストの名を信じ受け入れたすべての者を、キリストはご自身の証し人・証人だとおっしゃっています。なぜなら教会そしてキリスト者とは、主を証しするために、神に呼びかけられ、世から選び出された者たちだからです。一人の例外もありません。
では、主の証し人・証人とは、具体的にどういうことでしょうか? 一言でいえば、目撃者です。キリストがわたしたちの罪のために死んで、よみがえられた。世の救い主となられた。このことをその目で見て、経験した、目撃者、目撃証言者なのです。 21世紀を生きているわたしたちが、どうして、イエス・キリストを目撃した証人になれるのでしょうか? 2千年前、まだわたしたちは生まれてもいません。しかもわたしたちはユダヤ人ではなく、日本人です。遠い昔、ユダヤで起こった出来事を、どうやって目撃し、証言できるというのでしょうか。
すべては聖霊によってなされる。聖霊によって可能となる。そうキリストは約束しています。「あなたがたはこれらのことの証人となる」。「父が約束されたものをあなたがたに送る」。「いと高いところからの力=聖霊に覆われるまで」、この「都にとどまっていなさい」(49節)。都とはエルサレムのことです。主が私たちの罪のために十字架にかかった場所、墓に葬られた場所、墓を開いてよみがえられた都です。復活の主のもとにとどまり続けるなら、まもなく聖霊が注がれて、キリストを証しする者たちの群れが、この世界で、生み出される。わたしたち一人一人は、まちがいなくキリストの証し人となる。聖霊によってそのように用いられ、そのように生きる者とされる。主はそう約束し、断言されます。
わたしが四国の教会に仕えていたときのことです。こういうことがありました。戦後まもなく創立された教会です。創立時に洗礼の受けた男性が、80歳を過ぎて、天に召されました。その教会の初穂であった信徒・長老の一人でした。この方のご夫人、ご両親もまもなく洗礼を受け、クリスチャンホームとなりました。その方が召されたのをきっかけに、お家のお墓を、キリスト教式にされたのです。厚みが20センチ位ある、大きな平たい楕円形の石。その石の真ん中を十字架形にくりぬいて、墓石とされました。そのお墓に納骨したときのことです。列席したご遺族(教会員でもありました)の一人が、こうおっしゃったのです。「まるで、キリストがお墓を開いてくださったようだ」と。分厚い大きな石の真ん中が、十字架で打ち抜かれていて、向こうが見えます。少ししゃがむと、十字架を通して、青い空が目に飛び込んできました。居合わせた皆が口々に言いはじめました。「本当だ、キリストの十字架を通して、太陽の光が差し込んでくる」。「まるで十字架を通して、天の父が、わたしたちを見つめてくださっているみたいだ」。
主イエスの納められたお墓は、洞穴式でした。その入り口には、大きな石でふたがしてありました。しかし、弟子たちが行ってみると、ふたは動かされており、すでに墓は空になっていました。主は、よみがえられたのです。
そのときと同じです。わたしたちのだれもが、死を経験し、暗い墓の中に収められていきます。しかし、キリストは復活されました。わたしたちのために十字架につけられたキリストが、よみがえって、わたしたちが納められた墓に、穴を開けたのです。十字架の形で! 墓は開かれました。主の墓だけではありません。わたしたちの罪のために十字架にかかり、わたしたちのためによみがえられたキリスト。このお方を信じるならば、死にゆくわたしたちも、キリストによって、永遠のよみがえりの命へと、すでに開かれています。
老いや衰えに見舞われ、死の扉が音を立てて閉ざれるときにも、十字架の主が、死のふたを打ち破ります。キリストの十字架を通して、復活の光が、わたしたちの内に差し込んできます。罪の力も死の闇も、もはや、わたしたちを閉じ込めておくことなどできません。キリストと共に死んで葬られたからには、すでに、キリストと共に新しい命によみがえらされています。
「あなたがたは、これらのことの証人である!」 そうキリストは断言されました。キリストは二千年前、死んで葬られました。「あなたのために」キリストは喜んで死に、「わたしたちのために」、死者の中から、よみがえってこられました。 「あなたのために」、「わたしたちのために」、この一点で、わたしたちはキリストに結ばれています。つながっています。
聖霊の力によって、神の言葉を信じ、キリストに接ぎ木されました。キリストに結ばれているからこそ、わたしたちは、キリストの証人です。ふさわしいとか、ふさわしくないとか、わたしたちには言えません。「わたしたちのために」、キリストは、死んでよみがえられました。わたしたちはすでにキリストのもの。罪と死からあがなわれ、主のものとされています。だからわたしたちは、十字架と復活の主キリストの証し人なのです。二千年の時と場の隔たりを超えて、復活のキリストが、わたしたちの永遠の救い主となってくださいました。歴史を貫いて、聖霊の神が、わたしたちを主の証し人として立てられました。
教会は、キリストの体です。今も生きておられるキリストの体として、主の十字架と復活を、この世で証しし続けてまいります。
「わたしは送る。わたしの父の約束を。あなたがたに」(49節)。それまでは、都にとどまっていなさい。エルサレムとは、すなわち、主が私たちの罪のために十字架にかかった場所、よみがえられた都です。主の約束がしっかりわたしたちを包み込んでくださるまで、十字架の主、よみがえりを遂げたキリストに、しっかりとどまり続けましょう。 主の約束がさらに前進し、世の終わりに向かって実現しますように。世界のただ中で、今も生きて働いておられる主のお姿を、どうかわたしたちのこの目に、しっかりと刻みつけてください。「罪の赦しを与える」キリストのもとへ、一人でも多くの方が、立ち帰ってこられますように。主の招きに応え、主の証し人として生きる力、その源である聖霊を、主よ、どうかわたしたちに豊かにお与えください。
   

(説教者:堀地正弘牧師)

「アダムとエバ」


(創世記3章1~10節)

・土の塵から生まれた人間
 創世記1章は、天地創造の神の業を、宇宙的なスケールで記しています。宇宙というと、現代は宇宙開発や研究も進んで、地球や銀河系がどうやって生まれたのか等、色々な事がわかってきています。我々の住む地球や、宇宙の様々な天体、銀河系は、宇宙の塵が集まってできたことが分かっています。わたし達人間は、どうでしょう。神さまが土(アダマ)の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。神の息が吹き込まれて人は生きるものとなった。これが世界最初の人間でアダムです。ちなみに、神さまは、小鳥たちや動物たちも土からとって造りました(創世記2章19)。神さまが命の息を吹き入れたのは人間だけです。
・人間の使命:
神さまは、御自分の手で造られたエデンの園に人間を住まわせました。人間は、エデンの園の土地を耕し守る使命が与えられていました。人間は、神様が造られたこの世界の管理人で、この世界を造った主は神さまです。神様は、エデンの園に見るからに、好ましく、おいしい果実がなる木や草花がたくさん植えられました。エデンの園の中央には、命の木と善と悪を知る知識の木を神さまが植えました。そして主なる神は、人間に一つの戒めを与えました。「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。食べると必ず死んでしまうから」
・エバの誕生
神さまは最初に一人の男の人を造られました。神さまは、言われました。「人が一人でいるのは良くない、彼にあった仲間を造ろう」。神さまは、土をこねて生き物を造られアダムのところに連れてきました。アダムがそれをどう呼ぶのか神は見ておられました。人間が生き物を呼ぶと、それが生き物たちの名前になったのです。人間は生き物たちに様々な名前をつけました。スズメ、からす、犬、猫、猿、トラ、パンダ、生き物たちに色々な名前がつけられました。しかし、人は生き物たちの中に彼に相応しい仲間を見つけることができません。それで神さまはアダムを深く眠らせ、彼のあばら骨の一部を取り出して、そこから女の人を作られました。アダムは女の人を見ていいました。「これこそわたしの骨の骨、肉の肉。」アダムは、ふさわしい仲間を見つけました。
人間アダムに似合う仲間とは、共に神さまを見上げ、共に神の使命を担い、神さまの言葉を尊重することが出来る。それが相応しい仲間だったのです。人間は、神さまのくださったすばらしい世界を耕し守り。すばらしい仲間と一緒に神さまの恵みによって守られ、神さまの使命と戒めを守って生きていました。
・蛇の登場
ところが、それを破壊するものが表れます。神が造られた生き物の中で、最も賢い生き物は蛇でした。蛇は女の人にいいました。「園のどの木からも食べてはいけないと、神は言われたのですか」。つまり、蛇はこういいたかったのです。貴方たちはいつもエデンの園の木々のお世話をしていますね。エデンの園には、美味しそうな木の実がたくさんなっているのに。神様は園のどの木の実も食べてはいけない等とおっしゃったのですか。蛇は、神さまの命令を直接聞いたわけではありません。その点では、エバも同じです。神さまの命令を直接聞いたのはアダムです。蛇はいかにも人間の心配をしているように見えますが、本当は人間のことなど心配していません。本当にわたしたちの心配をして下さるのは、主なる神さまだけです。神さまが人間を困らせたりするはずはありません。エバはいいました。「わたし達は、園のどの木からも取って食べて良いのです。ただ園の中央に生えている木の果実は食べてはいけない。触れてもいけない。死んだらいけないからと、神さまはおっしゃいました。」園の中央には命の木と善と悪を知る知識の木があります。神さまが、わたしたちにとって食べるなと言われたのは、善悪を知る知識の木の方だけです。命の木については、神様はわれわれに食べるなとは言われませんでした。しかしエバと蛇が話しているのは、善悪の知識の木のことだけでした。命の木のことは、エバも蛇も全く無視しています。
・欲しがってはいけないもの
蛇はエバに言い返します。「それを食べても、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものになることを神は知っておられます」。どういうことでしょう?蛇の言葉にエバは、動揺しました。どういうことか?食べると死ぬという神様の言葉は嘘だったのか?神さまは、わたしたちに本当の事を教えてくれなかったのか?エバは急に神さまを疑い始めます。そして善と悪を知る知識の木の果実は、とてもおいしそうで、賢くなれそう。この実を食べれば神さまのようになれますよ、食べても死んだりしないよと、まるで知識の木が誘っているように見えます。ついにエバはそれをとって食べ、一緒にいたアダムにもとって与えました。そしてアダムも食べました。すると、二人の目が開け、アダムとエバは自分たちが裸なのを知りました。アダムは、エバと蛇の会話を最初から聞いていました。そして神の戒めが破られそうになっても黙って見ていました。傍観者だったのです。他の人の罪を傍観する人は、結局一緒に罪を犯すことになるのです。二人はイチジクの葉を縫い合わせて腰を覆い隠すものをつくりました。これが人類最初のソーイングでした。でもこの人類最初のソーイングは上手くいきませんでした。何故なら神様は、後でアダムとエバに皮の衣を造って着せ、二人の裸を隠してくださったからです(創世記3章21)。
・世界が一変
その日、風が吹くころ、神さまの足音が聞こえます。アダムとエバは神さまを顔を見るのが恐ろしくなって隠れました。罪を犯すまでは、アダムもエバも神さまが恐ろしくて隠れたことはないのに。そして蛇は呪われるものになりました。女の人は、産みの苦しみや様々な人生の苦労大きくなり、男に支配されるようにもなりました。神はアダムに言いました。「お前は、とって食べるなと命じた木から取って食べた。お前ゆえに土は呪われるものになった。お前は、生涯食べ物を得るために苦しむ。…塵に過ぎないお前は塵に返る」アダムとエバは、エデンの園から追放されました。それ以来わたし達人間は、神の楽園、エデンの園を耕し守ることもありません。エデンの園をの見る事さえできません。今のわたしたちは、神さまの見えない世界で、食べていくために苦労して、毎日明日の生活の心配をしながら生きるようになったのです。この世界は、人間の欲望が支配し、人々は神の存在を信じなくなりました。人間同士は、互いを疑い、差別し、争い、互いを私欲の為に利用しあう世界となったのです。その生きにくさを忘れたくて、わたしたちは表面だけの楽しみに明け暮れしています。うわべの楽しみは、一時は気を紛らわせてますが、死の恐怖は変わりません。人間は、塵から生まれたから、何時か塵に返る。死すべき定めは、誰ひとり逃れることが出来ません。死の恐怖は、世界を覆っています。死が支配するこの世は悲惨です。
神はこの世を見捨てられたのでしょうか。そうではありません。神は独り子をお与えになった程に世を愛された。御子を信じる者が独りも滅びないで永遠の命を得るためです。罪が支配するこの世を、主の喜びに満ちた世界に回復するために神の御子イエス・キリストは世に来られました。この方は、わたし達の罪を背負って死に、復活されたのです。イエス・キリストを通して告げられた福音を信じましょう。
 

(説教者:堀地敦子)

「まさしくキリスト」


(詩編16編7~11節、ルカによる福音書24章36~44節)

キリストはよみがえりました。わたしたちを救うため、十字架で確かに死なれたキリストは、三日目の朝、わたしたちのために復活なさいました。
死からよみがえることで、キリストは、あるものを「開かれ」ました。キリストが開いたものは三つです。まず、墓が開かれました。ご自身、死んでよみがえることで、死の世界に終止符が打たれ、新しい永遠の命の道がわたしたちに開かれました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)。
次にキリストは、人びと、特に弟子たちの「目」を開きました。キリストの死によって絶望し、信仰と希望を失った者たちを、「信仰」へと開いたのです。そのためにキリストは、聖書・神の言葉を、わたしたちに「開いて」くださいました。 キリストの墓はすでに開かれました。では、キリストは、どのようにわたしたちの心を、信仰へと開いてくださったでしょうか? 
キリストが死者の中からよみがえってこられるその瞬間のことは、聖書には記されていません。ただ、イースターの朝、婦人たちが墓を訪れると、すでにそこは空でした。主の亡骸はどこにも見当たりません。そこに天使が現れて、告げます。「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」。そう聞いても、まだ半信半疑であった弟子たち。しかしまもなく、二人の弟子やペトロに、復活の主が現れました。そしてこの場面で初めて、何人もの弟子たちが集まっているところに、よみがえりの主が、現れます。 36節:「こういうことを(弟子たちが)話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『…平和があるように』と言われた」。
ところが、よみがえられたキリストに、弟子たちは「恐れ、おののき」ます。亡霊を見ているのだ」と思い込み、うろたえてしまいました。あれほどキリストのことを求め、慕っていたはずなのに、どうしてでしょうか?
弟子たちに、キリストが問いかけます。38節:「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」。そう言うと、主の方から、ご自身の手と足をお見せになりました。39節:「わたしの手と足を見なさい。まさしくわたしだ」。ほかの誰でもない、幽霊でも悪魔でもない。「まさしくわたしだ」。
「見なさい」と主が差し出した手と足には、十字架につけられたときの傷跡が残っていました。この傷に触ってみなさい、この傷跡をよく見なさい。「まさしくわたしだ」。あなたがたの罪を十字架で背負い、死んで、よみがえってきた「わたしイエス・キリストである」。 そうご自分を、弟子たちの目の前にあからさまに示されたのです。 人は喜んで自分の傷跡を見せるでしょうか? 牧師をしていますと、ご病気などで入院された方々のお見舞いに、よく参ります。特に手術を受けられる方たちには、その前日に、必ずお祈りに伺うようにしています。無事に手術が終わると、「胃を全部摘出しました」とか、「背中のここを大きく切って、腫瘍を取り出しました」とか、説明してくださいます。でも、実際に手術の傷跡を見せてくださる方は、まずいらっしゃいません。 長く教会学校の教師をしていたある方が、胃の全摘手術を受けました。大きな傷跡ができました。その傷を子どもたちに見せたくないので、プールや海水浴には参加できません。そう申し出られた方がいらっしゃいました。
その一方で、ご自分の傷跡を見せてくださった方がいました。ご高齢の男性です。命にかかわる病気で、手術を終えてから2週間経った頃でしょうか。病室で私と二人きりになったとき、「先生見てください」と、ご自分から傷跡を見せてくださいました。それは、神への感謝の祈りをささげた後のことでした。不摂生がたたって、あのまま死んでもおかしくなかったこの私を、神様が憐み、死から救い出してくださった。もう一度、信仰に生きるチャンスをくださった。傷跡を見せることによって、死から救われた感謝を、牧師と共に神の前で確かめたかったのです。
本来、自分の傷跡を見せることなどは、あまりしたくないものです。体の傷だけでなく。人には言えない心の傷をもわたしたちは抱えています。キリストも、十字架の上で神に見捨てられ、死の恐れと戦いました。弟子たちに裏切られるという辛い経験もなさいました。キリストこそ、だれよりも大きな傷を、体と魂に負ったお方です。 その傷をキリストはすべて、弟子たちにお示しになりました。今ここに、あなたの目の前に、「わたしがいる」。まさしくわたしだ。わたしが十字架で受けたこの傷によって、あなたがたの罪は赦された。あなたの傷は癒された。そのことを、伝えたいからです。 40節「こう言って、イエスは手と足をお見せになった」。すると「彼らは喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた…」(40~41節)。
キリストがご自身の傷をお示しになると、あれほど信じられないでいた弟子たちに、変化が起こります。弟子たちの心は、キリストによって開かれていきました。主のご臨在を目の当りにする中、信仰へと弟子たちは開かれていきます。手足の傷を見て、まさしくキリストだと気づき始めます。しかしこのはまだ、半信半疑です。その様子を福音書は、こう記しています。「彼らは喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた…」(41節)。原文では、「それでもまだ彼らは信じられないでいた。喜びのため、驚いていた」。 アンビリーバブル、という言い方が英語にあります。「信じられない」というときによく使います。このときの弟子たちの喜びを、よく表していると思います。
自分たちの罪におびえ、キリストに見捨てられ裁かれると恐れていた弟子たち。キリストがよみがえられたのに、この喜ばしい出来事をまだ信じきれないでいる弟子たち。まさか自分たちが見捨てたお方によって、わたしたちの罪が背負われ、償われていたとは! わたしの救いを成し遂げるために、キリストは十字架で死に、そしてよみがえられた。救いの事実を、思いがけず弟子たちは、生けるキリストから受け取ったのです。 振り返ってみれば、ルカによる福音書は、最初から、喜びの訪れをわたしたちに告げていました。キリストがお生まれになるとき、大いなる喜びが、人びとを天から捉えました。そして今、「信じられないほどの喜び」が、よみがえりの主によって、もたらされたのです。
このあとキリストは、弟子たちに求めます。「何か、食べ物はあるか?」 焼いた魚を弟子たちが差し出すと、彼らの見ている目の前で、キリストはこの魚を食べました。「まさしくわたしである」。39節:「亡霊には肉も骨もないが、…わたしにはそれがある」(39節)。ここでも、そのことをお示しになりました。
不思議に思います。よみがえられたキリストとは、目にみえない、肉や骨のない天使のような存在ではないのか?と。ところが聖書が証しするキリストには、手足があり、肉や骨さえありました。どういうことでしょうか?
このことを、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一15章で詳しく述べています。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活…するのです。」 「つまり自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。
われわれがもって生まれたこの肉体は、必ず終わりが来ます。この体で永遠に生きることはできません。形あるものは必ず滅び、土や塵に帰ります。しかし、キリストを信じ、罪赦されたわたしたちは、復活の初穂キリストから、永遠の命、永遠の体を受け取るのです。このことを示すために、復活のキリストは弟子たちの見ている目の前で、食事をされました。
クリスマス、わたしたちと同じ肉体をもってお生まれになった神の御子は、十字架で死なれたのち、霊の体に復活されました。主は今も生きておられます。 このことを信じるようにと、キリストは、神の言葉である聖書を、わたしたちに開いてくださいました。44節です。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いている事柄は、必ずすべて実現する。これこそ」、前もってあなたがたに「言っておいたことである」。
律法と預言者の書と詩編とは、旧約聖書のことです。これにイエス・キリストのご生涯を著した福音書や手紙が合わさり、新約聖書が加えられました。神の言葉、救いの言葉として旧新約聖書が、今すでに、わたしたちの許にも届けられています。
キリストの誕生とご生涯、特に十字架の死と復活がすべて、わたしたちを救うため、神があらかじめ立てた計画であったと、主は聖書の言葉を開いてわたしたちに示しました。十字架のキリストこそ、永遠からの、本来の神の御子です。わたしたちのただ一人の救い主です。このことを信じるようにと、キリスト自ら、聖書の言葉を開かれたのです。 事実、聖書の言葉はすべて実現しました。キリストにおいて、神の約束はその通り実現したのです。死から、キリストはよみがえりました。仮死状態から息を吹き返したとか、実態のない亡霊としてよみがえったのでもありません。弟子たちに栄光のお体を現し、今もまちがいなく生きておられるお方として、教会とわたしたちを、これからも永遠に導き続けます。
このキリストから、とこしえの希望、尽きることのない慰めと、永遠の命を、まさしく受け取るのです。
「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」(詩編16編10~11節)。

(説教者:堀地正弘牧師)

「主は生きておられる」


(列王記下2章13~18節、ルカによる福音書24章1~12節)

 ・復活前の安息日
主イエスは、金曜日の午後3時頃に息を引き取られました。アリマタヤのヨセフが、総督ピラトのところに行き主イエスの遺体を引き取りました。彼は主の遺体を亜麻布で包み、まだ誰も葬ったことがない新しい墓に納めました。ユダヤの墓は岩をくりぬいて遺体を納め大きな石で墓の入り口を塞ぐものでした。主の葬りの様子を婦人達は、見ていました。彼女たちは、主がガリラヤにおられたときから従ってきた人達です。
彼女たちは、香油と香料を準備して急いで家に帰りました。なぜ急いだのかと言うともうすぐ安息日が始まるからです。六日の間に神さまが天地を創造し七日目に神さまは御自分の造られた全てのものを祝福し全ての業を休まれたからです。安息日に、婦人達は掟に従って休み待機していました。安息日が終わったら早く主の墓に行き、葬りと墓参りをしようと準備していました。神は婦人達の為に別の使命を準備していました。その使命とは彼女たちが全く予想もしていなかったことです。
・週の初め日が明けて
安息日がおわり週の初めの日になりました。婦人達は、準備していた香油と香料を持って墓に行きました。主イエスの体は布で包んだだけでまだ香油も塗られていません。それは、まだ夜明け前の早い時間でした。彼女たちが墓に行って見ると、墓の入り口にあった大きな岩がわきに転されています。大きな石がどのようにして転がされたのかは分かりません。マタイの福音書には、そのとき大きな地震があり天使が降りてきて石をわきに転がしたと言います(マタイ28章2節)。ともかく婦人達は、主が納められた墓に入りました。ところが婦人達が「中に入っても、主イエスの遺体が見あたらない」のです。一体これはどうしたのか。誰かが主の体を盗んでしまったのか。婦人達は、とまどっていました。
・不思議な二人
そんな婦人達のそばに突如二人の人が現れました。この二人は、輝く衣をまとっていた。主イエスがまだ生きておられた時、よく似た事がありました(ルカ9章28~36)。それは、主イエスが祈るためにある山にのぼられた時です。突然主イエスの様子が変わり、その衣服は真っ白に輝いたのです。その時モーセとエリヤの二人の預言者たちも現れました。二人は主イエスがエルサレムで遂げる最後について話をしていたと言います。この時主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れていました。では、婦人達の前に現れた二人は、一体だれだったのでしょう。主の天使たちだったのでしょうか。
・天使たちからの質問
 婦人達は、恐ろしくなり地面に顔を伏せました。この二人が神の御使いだとしたら。罪深い人間が神の顔を直接見ることは死を意味します。ここにいるのが主の天使たちだとしたら、その顔を直に見ればら死んでしまうのではないか、と。彼女たちは恐ろしくなったのです。そんな彼女たちに二人は言いました。「なぜ生きておられる方を死んだ者の中に捜すのか?」と。どういう事でしょう。婦人達は、香油を用意して来ていました。死んだイエスさまのために何も出来なかったから、葬りの儀式をわたしたち達の手できちんとやり直ししたい。イエスさまとの在りし日の色々な事を思い出をたどりたいとおもってここに来ていました。しかし、天使たちは言います。あなたたちは、主イエスを死んだ方だと思って墓に来ましたね。しかし「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのです」。天使たちから、思いも掛けない言葉をききました。
・主イエスの言葉を
 「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する事になっている、と言われていたではないか」。婦人達は、皆ガリラヤの時から主イエスと一緒にいました。婦人達の中には、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアや、ヤコブの母マリア、ヘロデの家令の妻ヨハナ、悪霊を追い出し病気を癒していただいた人など色々な背景を持っていた婦人達がいました(ルカ8章1~3、ルカ24章10)。彼女たちは、自分たちのものを持ち寄り、主イエスと弟子たちの一行に奉仕していました。婦人たちは、人としてのイエスさまとの交わりやイエス様や仲間と過ごした多くの思い出がありました。しかし、彼女たちは肝心なことを忘れていました。主イエスが何の為この世に来られ、主は、誰の為に生まれて死んで行かれたのか。主は、わたしたちの罪の為に十字架に掛かり死なれました。わたし達が主イエスを十字架につけて殺したのです。主はわたしたちの罪が赦されるため世に来られ十字架で死なれました。わたしたちが主を十字架につけ殺しました。しかし、神はわたし達が十字架につけた主イエスを三日目に復活させられたのです。主イエスは、御自分の十字架の死と三日目の復活をガリラヤにおられた時から繰り返し仰っていました。信仰とは、過去の思い出に浸ることではありません。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」(ルカ1章45節)。主がお語りになったこと必ずその通りになると信じること。今、わたし達のただ中で神の約束が実現されていることを信じていくことなのです。それが主の御言葉に従って生きることです。
・主の言葉を携えて
主の言葉を思い出し婦人達は、墓から帰って行きました。天使たちから聞いた言葉を伝えるためです。彼女たちは、11人の使徒たちと他の弟子たち主イエスに従ってきた仲間たちに知らせました。主イエスの墓で天使たちを見たこと、墓が空だったこと。「イエスさまは、生きておられます」。主は復活なさったのです。ガリラヤにおられた時から、主が約束された通りになりましたと皆に伝えました。しかし、これを聞いた使徒たちや他の弟子たちも、婦人達の言うことが信じられません。婦人達は、きっと夢でも見たに違いない。さもなければ、たわごとを言っているのだとしか思えなかったのです。ただペトロは、一人墓を確かめに行きました。確かに墓にイエスさまはおられません。彼は驚きながら家に帰って行きました。この時から、婦人たちが主の復活を仲間に伝えた日から、わたしたち教会は、土曜日の安息日ではなく、主の復活なさった日曜日に主日礼拝を守っています。これは現在の教会に引き継がれ、主が再び来られるその日まで続けられます。
このように、この世で最初に、主の復活を伝えたのは主に従ってきた婦人達だったと言います。婦人たちは、主の言葉を思い出してそれを仲間に知らせました。にもかかわらず、彼女たちも仲間にも信じてはもらえなかったのです。二千年前の婦人達でさえ信じてもらえないのだとしたら、現代のわたし達が、イエス様のことを伝えてもなかなか信じてもらえないのは、ある意味で当たり前なのかもしれません。それでも、落胆する必要はありません。主は婦人たちを信じなかった弟子たちに現れてくださったからです。わたし達の身の回りには、主イエスの事を伝えてもすぐに信じない人ばかりです。しかし、その人たちにも主は現れてくださるはずです。聖霊を通して主はわたし達のただ中におられて働いてくださるからです。「聖霊によらなければ、誰もイエスは主であると信じることはできません」。わたしたちは、聖霊を信じます。聖霊の働きを信じて主の言葉に従っていきましょう。  

(説教者:堀地敦子牧師)